2008年11月3日月曜日

「老コンサルの残日録」http://ameblo.jp/tkjsk0231hzannitiroku/より

のぼうの城


今日は日和(ヒヨリ)もよく、和田竜の≪のぼうの城≫の評判が良く売れているようなので、ブラッと<のぼうの城>: 埼玉県行田市の忍(オシ)城:へ出かけました。行田は、私の出身地の近くです。同市は、私が義務教育年齢の頃は、全国1の足袋(タビ)と学生服の産地、で した。


その後、日本の縫製業界は人件費が安い途上国にその座を譲り渡し、行田もその例に漏れずサビれていました。行田へ は、JR高崎線・熊谷駅で秩父鉄道に乗り換えて行きます。首都圏とは言いながら、新しい産業が興きず、人と物の流れの幹線から外れている地方都市は、どこ でもソウでしょう。


代々、忍城は成田氏の城でした。豊臣の小田原・北条征伐、薩摩の島津家を除くほとんどの大名が参集しました。成田氏 は北条方で、城主の成田氏長は北条の本城・小田原城に詰めていました。城主の留守を守る城代は従弟の成田長親(領民は、デクのぼう様、と呼んでいたそうで す、イメージ湧きますか?)、そこへ石田三成が総大将を務める豊臣軍20,000人が押し寄せます。


<のぼう様>は、あの上杉謙信すら落とせなかった堅固な忍城に篭城し、3,000人の寄せ集めの兵を督励して城を守 ります。三成は、秀吉が備中高松城を攻めた時と同じように、忍城を水攻めにしようと延長28キロにも及ぶ<石田堤>を築きます。<水の城>・<浮き城>と 呼ばれた忍城、水が溜まって来た時を見計らって<のぼう様>方の間者が堤を破壊します。


溜まった水は濁流となって石田本陣を襲い270余人が溺死、豊臣軍(石田軍)の負け戦(イクサ)でした。この事か ら、石田三成は戦将として<?>になったのかも?でも、モハヤ豊臣に逆らうのは島津だけ、島津もやがて屈服します。その後は、関が原戦まで大戦(オオイク サ)はありません。その三成が関が原戦の実質的な大将でした。やはり<戦将にあらず>なんでしょうか?


北条氏は豊臣に降伏して本城・小田原城を開きました。忍城を除く北条の支城はすべて降伏していました。その中で<の ぼう様>の忍城だけが戦を続けていたんです。でも、やがて城を明け渡します。その辺の事を書いたのが≪のぼうの城≫だと思います。また、小説≪水の城いま だ落城せず≫(祥伝社文庫・風野真知雄)が成田長親のキャラを非常に魅力的に書いているとか(また聞きです)。


忍城、殆んど住宅化していて主郭の一部が公園になっています。御三階櫓は、本来ならば別の所に建ってた筈なんです が、主郭に、それも馬鹿デカイのが建っています、もちろん復元ではありません。防御用の壁にある矢狭間・鉄砲狭間もヘンです。でも、主郭の一部と諏訪神 社・東照宮には当時のものと思われる立派な土塁が残っています。そして、当時の湿地の跡らしいところも。


帰り道、名将太田道灌の埼玉県岩槻市の岩槻城へ寄る予定でしたが、先月の29・30日・東信4城巡りの疲れが残っていて、また昨日はジムで頑張りすぎて、もうダメだ、次の機会に、と帰りました。今年は正月以来58城目、今年はペースが上りません。


上田市真田の松尾城(真田本城)本丸土塁。真田氏が戸石城へ本拠を移すまでの真田系城郭ネットワークの指令所だった と思います。普段の居館は麓にありました。上田平へ進出したかったんでしょうが、当時の戸石城は宿敵・村上義清の支城で、それを阻んでいました。真田家は 真田の荘を本拠にしていましたが、村上氏に追われ上州の長野氏の庇護を受けていました。やがて武田氏の後押しで真田の荘を回復します。人気の戦国武将・真 田幸村の父・昌幸、その父・幸隆の頃です。戸石城が欲しい。


松尾城:真田本城


松尾城から旧真田町役場へ行く途中のリンゴ畑、時期的に枝もタワワです。リンゴ、青森・長野・山形…が産地ですが、この辺り、上田の神科辺りのリンゴ(フジ)が最高だと信じています。


真田のリンゴ畑


戸石城・本城への大手道(写真の左)、右は削平地(曲輪跡)です。いつもコンナ所をあえぎあえぎ歩いています。今日の忍城は、今年に入って58城め、例年よりペースが落ちています。

戸石城の削平地


戸石城は、武田信玄が攻めた時に村上義清に惨敗した≪戸石崩れ≫で有名な城です。その後、真田幸隆は謀略で戸石城を乗っ取りました。上田原への進出を拒み続けた村上氏を追い払い、本城を松尾城から戸石城へ移しました。さあ!頑張るぞ!

戸石城から松尾城を望む。コンナ近くで睨みあっていたんですね。中央やや右の岡が松尾城です。


戸石城から真田遠望


戸石城から進出したかった上田平を望む。真田昌幸が、やがて上田城を築き上田原へ進出、大名の仲間入りを果たします。上田城の写真はありません。


米山城から上田平遠望


これからは荒砥城(1枚は忍城)の写真です。


上山田の荒砥城、2郭の井楼櫓です。中世の山城の見張り所はコンナ雰囲気だったんでしょう。


荒砥城二郭井楼櫓


近世の城の隅櫓(きょう出掛けた<のぼうの城>=忍城の御三階櫓)です。築城目的や、人口増・全国的な開墾や治水による米の増収・金銀の増産と流通…で豊かになった結果でしょう。


忍城・御三階櫓


荒砥城本丸から、村上義清の葛尾城を望む。千曲川を挟んで、目と鼻の先です。真ん中の山です。


荒砥城から葛尾城・姫城・千曲川


荒砥城本丸から、遠く白銀の北アルプス、川中島あたりを望む。画像をクリックして拡大すると、真っ白な北アルプスが見える筈です。


荒砥城からの北アルプス


荒砥城から川中島方面


この荒砥城は、上杉と武田の勢力の境目にあったので、いわゆる≪境目の城≫のひとつです。この城にも、荒砥城としてのイロンなモノガタリがあります。去年のNHK大河ドラマ≪風林火山≫のロケに使われました。2郭から1郭(本丸)への登り口から、冠木門と櫓門です。


荒砥城本丸を下から:冠木門と櫓門


たまには趣向を変えて、城廻りの写真です。ご退屈さま。



戸石城の西南端・米山城を足を引きずりながら下りました。山道を荒砥城と併せて4時間ほど歩いたのでカナリ膝をやら れています。上田電鉄タクシーに配車を頼みました。戸石城の登り口は3ヶ所あり間違わないように場所の説明をしたつもりでしたが、いくら待っても来ませ ん。再び電話しました、乗務員が場所がわからないので戻ってきた、とのこと。近くに集落があるので、その集落の公民館に移動し場所を改めて伝えました。


迎えに来た乗務員は無言マンです。私の方から声を掛けました『お陰で新幹線に乗り遅れちゃったよ、指定券とG券が パーさ』、彼は相変わらず無言です、上田駅に着いたとき彼は言いました『そんなこたあ会社に言って下さいよ』。会社の配車係りに電話しました、担当者 『戻ったのと違う運転手が行ったので≪スイマセン≫が無かったんでしょう』。私『こんな事しても迎車料を取るんかね、きのう頼んで感じが良かった上田観光 タクシーは迎車料はナシだったよ』。社風なんでしょうか。


戸倉上山田温泉の小規模な旅館に泊まりました。温泉旅館協会に<1人でも泊まれる旅館>を頼みましたら、恐ろしいほ ど無愛想、そしてナント2軒しか無いんです。7月に猪苗代城を散歩した帰りに泊まった磐梯熱海では17軒が単身OKで、旅館案内には<単身OK>のマーク まで付いていました、駅前の温泉旅館案内所の親切なこと、泊まる事になった旅館の近くのホテルの送迎バスに乗せてくれました。いい旅館で歓待してくれまし た。上山田温泉、営業してる旅館は盛時の3分の1だそうです。解ります。


上山田温泉の≪〇〇の湯≫、泊まりに来たのが悪かったんかなあ、と思うほどオヤジ・女将が無愛想、仲居さんはミョウ チキリン、受付の女性だけがマアまともでした。信州人のイメージ、とにかく理屈っぽくて、協調性が?(信州人のかた、スイマセン)。だからアレだけの大県 でありながら地元に力のある大名が出ず、上杉・武田・徳川…の膝下に伏したのかも。


天気・景色・諸城は最高でしたが、出会った人達が…、これが旅の楽しみなのに(泣く)。


前回=449=東信(北信濃)は、東信(東信濃)の間違いでした、スイマセン。

生まれが埼玉県の県北です。同じ埼玉県でも、県内の東北を走る私鉄東武線(東の武蔵=武蔵=埼玉+東京)、同じく西 南を走る私鉄西武線(西の武蔵)の沿線は余り馴染みがありません。むしろ上野から群馬県の高崎を結ぶ国鉄高崎線、高崎から北へ登る上越線(上野=群馬と越 後=新潟を結んでいます)、高崎から北西へ向かう信越線(信濃=長野と越後を結んでいます)の沿線は小さい頃から馴染んでいます。登山とスキーだけでも両 線には思い出がイッパイです。

449=金融恐慌はこれから?東信(北信濃)紀行の1


28日に<=445=振り子の理論>を書きました。どうも当日が円高・株安・商品安…のターニングポイントだった様 で、<急速な下げ>は止まり<反転>とは言えないまでも、揉み合いながら少し相場を戻しつつある、あるいは低位安定の様相、を見せている様です。         


でも、まだ解りません、=444=に書いたように≪…(金融先進国には)まだまだメガトン級爆弾(金融保険商品 <CDS=6,000兆円という想像を絶する不良債権が発生した?>など)を抱えているとか…。≫、これが爆発したらそれこそ<世紀末>、米国の金融悪魔 が世界を滅ぼします。そうならない事を祈るばかりです。        


『…ホントは今が仕込み時期なんですよね。』と書き、少しは心を残しながらも、少々の経済的利得よりは大いなる心の 利得を、とばかり計画通り信州の主に真田系の城を幾つか歩いて来ました。29・30日ともに上天気、上田あたりは元もと高地で空気が乾いているので最高の 城廻り日和でした。


真田氏の城といえば上田合戦(真田氏が2度にわたり徳川の大軍を痛めつけたので知られています)で有名な上田城、上 田城を築く前の真田氏の本城=戸石(砥石)城、戸(砥)石城を獲る前の真田氏の本城=松尾城(真田本城)、それらと支城とのネットワーク。真田氏が小豪族 から大名に成り上がる過程と持ち城の関係、なんとなく解った様に思います。       


もう1城は、上山田(温泉)の荒砥城で、この城は真田氏とは直接の関係はありませんが、上杉と武田が獲り合った、川 中島に近い所にある城です。かつて竹下さんが≪ふるさと創生資金≫として全国の各市町村に1億円づつ配った資金で450年前の姿に復元(かなあ?)したも ので、『当時の城ってこんなんだったんだ』雰囲気はわかります。去年のNHK大河ドラマ≪風林火山≫のロケに使われたとか。


だいぶ前に出掛けた愛知県奥三河・松平郷(徳川家康の先祖の発祥地、家康はその9代目)の更に奥の足助城も<ふるさと創生資金>で復元(?)したものだそうです。


上田城は近世の城郭(平城)で有名、仕事の関係で上田市には10年以上毎月出かけたのでヨク出掛けました。が、戸石 城の一部・米山城には一度だけ登ったものの戸石城の全域を歩いたのは初めてでした。北から枡形城・本城・戸石城・米山城、4つの城が一つの城郭をなしてい ます。説明看板には<連郭式山城>とありますが<1城別郭式山城>と言う方がイイかも。

=448=生まれてくる子供、生まれてきた子供を大事に

テーマ:ブログ 家内はこの28日で還暦を迎えました。子供の頃の歳の数え方が、数え年だったか満年齢だったか聞いたところ、ドッチ も使われていた、とのことです。<満年齢>が一般的になったのはいつ頃の事なんでしょうね。<数え年>の頃は、生まれた時が1歳、正月が来ると2歳、極端 なハナシ、12月31日に生まれた子供は1日だけ1歳、2日目(翌日の元旦)には2歳です。


だから、12月の末近くに生まれた子供は1月初めに生まれたことにする親が多かったようです。ナゼカと言うと、生ま れて間もないのに1つ歳をとってしまう、春先に生まれた子供とのいろんな意味でのハンデが大き過ぎる、だから…、親心ですよね。むかしは、元旦が誕生日、 という子供がケッコウいました。
               
今日は10月の晦日、2008年・平成20年もあと2ヶ月です。『明けましておめでとうございます、今年もよろしくお願いします』、まるで昨日の事のよう な気がします。前にBLOGしました昔の<NHKのトンチ教室>(今のTV番組:笑点の原点です)、どなたかのトンチ、司会者(高橋敬三さんだったかな あ?)の『めでたくもありめでたくもなし』を入れて一句を、に対して、


『正月や冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし』、凄い才能ですよね、もう何十年も前なのに不思議と覚え ています。新しい年を迎えると(正月が来ると)1つ歳をとります、私の歳になると、このトンチ句に≪実感≫を覚えます。高齢者のこと、年金・医療・介護… 問題多発ですが、チョッと目先を変えて、国の宝:子供達にもっと暖かい政治が行われないものか、痛切に思います。


親が健康保険料を払ってないので、健康保険で病院に行けない子供が33,000人もいるんだそうです。医療費はすべ て個人負担、負担できないから病院へ行けない、んですね。都立墨東病院で7ER病院たらい回しのすえ子供は誕生したもののお母さんが亡くなった事件があり ました。ご主人『病院を責めると産科医がモッと減って社会が困るから…、国・都…何とかして欲しい』。升添大臣と石原知事、責任のなすりあい、みっともな いですね。


厚生予算削減の命題のもと、人命を疎かにしてきた厚生行政・政治、これから子供が生まれるようにする事も大事です が、生まれてくる子供、生まれてきた子供、こういう子供達をどうしようというんでしょうね。『無い』といってきた埋蔵金を使って票買いのバラマキ、2兆円 のプレゼント、それをやるならモッと前にやるべき事があるのでは?、少子担当大臣の役割はなに?義務教育年齢は無料健康保険制度、内閣支持率アップ、ソウ 思われませんか? 

=447=解散総選挙は無期延期(来年9月が期限)


俗な言葉で<毛並みがいい>総理大臣がズット続いています。でも麻生さんは、その中でも異色です。小泉さんは異常性格者、安倍さん・福田さんは政治的に毛並みのいい人達、麻生さんはヒトアジ違います。                                  


どこが違うかと言えば<若い頃から集団を率いてきた人・人の上に立ってきた人>、いわば<ガキ大将を続けて来た人>です。麻生グループの社長(実務は親族か番頭さん?)、日本青年会議所の会頭(地区JC・県JC・地方JC…)、<オレが…意識>が並外れて強い人です。


麻生内閣の誕生時、『オレが大将だ』『オレの内閣だ』内閣だ、とBLOGしました。その後を見るとまさしくその様で す。政治家・国民、ホトンドの人が麻生内閣誕生=解散総選挙と思っていましたが、麻生さんの性格でしょう、『オレが決める』、解散総選挙は無期延期になり そうです。


とつぜん勃発したリーマンの破綻をキッカケに、世界的に拡がった金融不安・経済の悪化…政局よりもこれに対処するのが政治だ、とばかり解散総選挙は先送りのようです。劣勢を予想される自民・公明、それを挽回するには今が絶好のチャンス、オカシな景気回復策を羅列しました。


所得制限ナシに、各家庭に総額2兆円の現金かクーポン券、お大尽の麻生家にも?減税ではなく、低所得で税金を納めてない世帯にもクリスマスプレゼント、解散総選挙を延期するのに反対している公明党むけ?公明党の太田さん『我が党が…』、さっそくPRしています。


野党の人達が言うように≪選挙に向けての金銭授与、買収と同じ≫、そうです、その通りです。景気回復の名の下にオオッピラな選挙違反(?)、こんな事で景気が回復するなんて麻生さん自身も思ってないでしょうから。こんな例は過去ありません。               


これで与党の支持率を上げて解散総選挙、を狙ってるんでしょうが、期待通り行くんでしょうか。街頭でインタビューに 答える若い女性『嬉しいけど国の財政は大丈夫なんでしょうか』。支持率が上らず、野垂れ死に、元前総理大臣のように内閣を投げ出すのか、任期満了(来年9 月)を待つのか、公明党(創価学会)との共闘はどうなるんでしょうねえ。