2008年9月27日土曜日

http://pub.ne.jp/shimura/?cat_id=84552&page=2志村建世氏のブログより

地球の適正人口は二十億人

 世界の人口が一時的に百億人に達しても、それで直ちに人類が滅亡するほどの破綻が地球環境に生じることはないでしょう。しかし、いつまでもその状態を継続できるかというと、多くの疑問があります。水もエネルギーも食糧も、百億の人を人間らしく生活させるには、無理にかき集めて精一杯という状況にならざるをえないでしょう。しかも需要と供給が地球上に均等ではなく、極端に偏って存在しているのですから厄介です。輸送と配分だけでも大変なのに、経済的な決済の問題が加わります。
 そもそも地球上に人類という大型哺乳類が、億の単位で繁殖してしまったことが異常な出来事なのです。ほぼ一万年前、一通り世界に拡散したものの農業を知らなかった人類の総人口は、約五百万人と推定されています。この程度が、素手で天敵と戦う自然状態で生存できる個体数だったのでしょう。その後、農業の発明によって食糧の安定供給が可能になり、人口は百倍の約五億人へと飛躍しました。その安定した人口のまま歴史時代に入り、十七世紀の半ば頃まで経過しました。そして科学の発達から産業革命を迎え、人類は徐々に人口を増加させながら繁栄への道を歩き始めたのです。
 一九〇〇年、日本の明治年代の終り頃に、世界の総人口は二十億人に達しました。そこから化石燃料の大量消費が始まります。それに合わせて人口の増加にも加速度がついて、一九六〇年に三十億人になったものが二〇〇〇年には六十億人と、四十年で倍増して今に至っています。国連の推計によれば、二〇五〇年に九十億人となり、その後は百億人程度で平衡状態になるとしています。
 私は高尾山の頂上から関東平野を見渡したとき、足元まで切れ目なく迫る市街地の広大さを見て、自然にとって人間とは、いかに異様な存在であるかを実感しました。この星に百億人でも住んで住めないことはない、しかし、目いっぱい人間のためだけに使い尽くしていいものだろうか、それが人間にとって豊かな生活と言えるのだろうか、と思ったのです。数が増えることが人類の繁栄だった時代は終ったのではないでしょうか。限りなく未来を開きたいのが人間の本能ならば、人間が支配しない広大な原野を、地上のどこかに残して置くべきではないでしょうか。
 目いっぱい数を増やすだけが人間の幸せではない、と気づきさえすれば、あとの問題はそれほど難しいことではありません。好ましい世界の人口は、化石燃料の大量消費が始まる直前の二十億人あたりが目標値になるでしょう。それは世界の人が「今のアメリカ人なみ」の生活をする水準と一致します。未来像がしっかり描けたら、人口をそのように減らすことも、おそらく数世紀もかけずに可能でしょう。

あまり欲深くない方が生きやすい
 人間は、さまざまな欲求を満たすときに喜びを感じます。空腹のときに美味しいものを食べる喜び、愛する人と性を分かち合う喜び、親しい人たちと共にいる ことの喜び、そして社会の中で地位を保ち尊重されることの喜び、などです。食欲のような動物としての基本的な欲求を下位に置き、個性ある人として社会の尊 敬を集めるというような、人間特有の欲求を上位に置く考え方もあります。
 動物的な欲求は、それを満たすのは比較的簡単で、たとえば食欲は適当な食物で満たせば後は忘れていられます。ところが人間特有の高度な欲求になればなる ほど、個人差が大きくなり、満足度も周囲の状況によって変ってきます。たとえば自家用の乗用車を持つことは、低開発国では夢のようなぜいたくなのに、アメ リカの貧しい黒人にとっては何の慰めにもならない、といった具合です。そしてまた始末が悪いのは、人間の欲求は一つを手に入れればまたその次と、止めどな く高度化する傾向を持っていることです。
 人間が絶えず自己を拡大したい欲求を持つことそれ自体は、決して悪いことではありません。欲があるからこそ人は目標を立て、それに向けて努力もします。 人類の文化はそのおかげでここまで進化し、私たちの生活水準は向上してきました。しかし人間としての生活水準の向上とは、人工物に囲まれて自然から遠ざか ることではないと私は思います。精神世界の高度化は別として、生活の場としては、自然の中にあってその一隅に安住の空間を築くのが人間の本来の姿であり、 そこには自ずから一定の節度が生まれてくるように感じるのです。万人に保障される「健康で文化的な生活」の中に、家族全員が自分の自動車を乗り回すこと や、自宅の庭に二十五メートルプールを備えることまでが含まれるようでは、地球環境への負荷はずいぶん大きなものになることでしょう。
 私が少年期を過ごした時代と比べても、現代人の生活はずいぶん高度化しぜいたくになっていると思います。少年期にはなかった水洗便所、冷暖房機器、テレ ビ、携帯電話、パソコン、自家用車などが、今では必需品になってしまいました。私はこれらのものがなかった時代を知っていますから、なくなってもそれほど 困らないと思いますが、子供たち孫たちは、なくなったら絶対に困ると言うでしょう。さらに今から百年後に、新しくどんなものが必需品に加わっているのか、 今の私には残念ながら想像ができません。
 しかしながら、人間が生活のために所有し消費する資源やエネルギーが、必然的に拡大しつづけるとは、私は思いません。人間の絶え間ない向上心は、一通り 快適な生活環境を手に入れた後では、もっと高度な欲求、たとえば倫理的な向上、知識の蓄積、芸術的な追求、人間的連帯の拡大などに向けて進んで行く可能性 があるからです。

人間が生きる四大要素

 地球上のすべての生命の基盤となっている植物が生きられる三要素は、水と空気と太陽光線です。私たちが太陽の光を浴びることに郷愁のようなあこが れを感じるのは、人間の遺伝情報であるDNAの中に、植物と共通の感覚が残っているからかもしれません。人間の場合には、これに「人とのふれあい」という 四番目の要素が加わって、はじめて人間が生きる四大要素になります。というのは、人間は仲間との交流なしには、人間独特の文化を維持できないからです。孤 立して育ち言語も文字も知らない人間は、類人猿と近縁の動物ではあっても、人間と呼ぶことはできないのです。
 この観点から人間にとって好ましい地球環境というものを考えると、その条件は、まず水と空気と太陽光線が豊かで安全である、すなわち植物が豊かに茂る環 境であること、そして人間同士の交流が豊かに保障される環境ということになります。私が前項でテラスハウス型の共同住宅を好ましく評価したのは、この四要 素がバランスよく満たされていると感じたからでした。
 この四要素のうちで植物と共通の三要素の方は、客観的に計ることも可能で、わかりやすい面があります。ところが人間に特有な四番目の要素の方は、より相 対的で変動幅が大きく、とらえにくい面があります。たとえば仲間との交流が豊かということは、多数の人間が過密な環境に押し込められていることではなく て、往々にしてその反対です。人間には自分の身を守る本能があって、親密でない他人が六十センチ以内に接近すると圧迫を感じると言われます。逆に親密な愛 情関係が成り立っている場合には、相手が六十センチ以内にいてくれないと不安になったりもします。
 この問題を考えるには、人間の本質は何かという、根源的な洞察が必要のように感じます。モデル的に考えれば、親密な恋愛感情で結ばれた夫婦があって、そ の一組がコアとなって一つの家族を形成します。その家族が最小単位となって、近隣の生活圏で地域社会を作り、その地域社会が広域の地方や民族単位にまと まったものが国家になる、ということになります。ですから最初の基本単位はやはり家族なので、家族が安心して生活できる居住空間を容易に手に入れられるの が、人間にとって住みやすい環境なのです。
 しかし家族は孤立したままでは幸せな家族になることができません。社会との交流を持ち、社会から援助されたり、社会に貢献したりすることで、社会の中で の位置づけを見出し、生活を維持して行きます。そのために必要なものは、安全な交通手段、便利な情報・通信手段、適切な水準の教育サービス、充分な医療・ 介護システムなどです。人間に必要な四番目の環境をどのように整えるかが、人類のこれからの課題です。

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