2008年9月27日土曜日

差別用語について


小生のさるパソコン通信会議室に宛てた被差別民に関する小話がそこの運営者により公開差し止めになったことを知った。
この短文の意図するところは「部落解放運動百年の成果を寿ぐ」もので、結論として文の末尾に明確に記載していた。話のきっかけは現役時代に同僚に相談されたこと、また自分から被差別民と名乗った人に出会ったことである。そして名乗られたとおりの用語で書き込んだ。
差別用語が題名他本文中にも出てくることと地域特定の可能性があることが公開差し止めの理由になっていた。これは一つの見識なのでそれに 異議を申し立てるつもりはない。しかし「純粋培養反対、適度の緊張感の持続」こそ開かれた日本の生気の原動力と信ずるものにとって少々硬直した姿勢と承っ た。
まず本質的に言語は無数の差別用語から成り立っている。比較級とか最大級というもの自体が差別用語である。厳密に差別用語を排除して使う なら言葉は心も感情も伝えないただの事務処理道具になってしまう。言語の豊かさは民族の心の豊かさ、活気につながる。中国人あるいは韓国人の喧嘩を聞いて いると極上級の差別用語のぶつかりでとても我々の及ばぬレベルだそうだ。私には濁りのない言葉だけで社会をつくろうなどと云う気はさらさらない。ばい菌が うようよした社会にしたい。それに「運動の成果を寿ぐ」立場からは「歴史認識維持」のためにも関係の用語を生きた形で保存すべきである。
「禁語になっている」が、これは良識で使う場所を考えてくれと云う類のものである。教室では使ったはずもないし、まして平素に指さして相 手をこの言葉で特定することも起こらぬ。講演で口にする馬鹿も居らぬ。公器ではプレスコードが目を光らす。「禁」ではあるが、私語あるいはそれに近い形の 雑談にまで昔の憲兵まがいの統制を志すものではない。電子会議室はまだ公器としての地位から遠い。気軽に立ち寄れる雑談室のはずである。卑猥な話や極端な 個人攻撃でなければ「禁」に当たらぬのではないか。「禁」に当たると非難が出ても責任は著者にあり、もし念を入れるなら運営側の意見を付け加えればよい。
差別部落特定の可能性はゼロである。大まかな地域別のデータは百科事典にだってあるし、もう一度見直したが、過去の投稿文全部を並べても特定は不可能と思った。実は私自身その人の住所は知らないでいる。
今回の差し止めはそれで結構である。私としては運営者はyesかnoかではなく、審査誌のように付帯意見付きで一旦著者に折り返すような方法が妥当だと思う。

('97/10/09)

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