2008年9月23日火曜日

http://pub.ne.jp/shimura/?cat_id=84552&page=
志村 建世氏のHPより

プロフィール
志村 建世

Profile : 1933年東京生れ
履歴・学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在・窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

2008.8.18

戦争と犯罪は人類を滅ぼすか(通算47)

いつになったら軍縮できるのか

 軍備とは、本当にぜいたくなものです。品質優先で経済性は後回しにされ、費用対効果の計算もろくに成り立ちません。戦闘機一機の値段が何十億円な どと聞くと、そのときは一瞬驚きますが、やがてそんなものかと半ばあきらめてしまいます。同じお金を別なことに使ったら、ずいぶん役に立つだろうとは、小 学生でも思いつくことです。さらに現代の軍備は、ますます金のかかるものへと肥大化する性質を持っています。兵器は最先端の科学技術を結集して作られ、絶 えず進歩しつづけるからです。競争に負けない優れた性能を求められることの切実さは、民需製品の比ではありません。
 太平洋戦争が終って間もない頃、中学生の私は航空雑誌に載ったアメリカの最新鋭ジェット戦闘機の写真に魅了されました。その雑誌の見出しが「人間が乗る 最後の戦闘機」だったことを、今でもよく覚えています。究極の戦闘機が開発されたのだから、おそらくこれが最後だろうと予想する雰囲気が、当時にはありま した。ところが間もなく朝鮮戦争が始まると、新型の戦闘機が次々に投入されるようになりました。そして朝鮮戦争が終った後も、戦闘機の開発競争は絶え間な く継続して今に至っているのです。
 兵器の開発では、自国の安心は他国の不安に直結するのですから、競争をやめることができません。国の安全は金額で評価できませんから、無理をしてでも優 先的に予算を振り向けることになります。さらにアメリカなどでは巨大化した軍事産業が国の経済に組み込まれていて、急な削減を難しくしている状況もありま す。
 銃社会の問題のところで考えたように、国の軍備も周囲との関係に影響されます。周辺国との間に緊張した関係が続いているようだと軍備増強の必要がある し、その逆ならば軍備の必要性は下がります。ただしどんなに友好的であっても、軍備を解かない国が存在している間は自国の軍備をゼロにすることはできませ ん。主権国家同士の国際関係に、絶対安全はありえないからです。アメリカは中国の最近の軍備拡張に懸念を示していますが、自国の巨大な軍事力が相手からど う見えるかを想像すべきでしょう。
 何度も繰り返しになりますが、世界から戦争をなくす唯一の方法は、主権国家の上に立つ、世界を統合する国際組織を作ることです。それが事実上のアメリカ による世界制覇であってもいいのです。アメリカに対抗できる軍事力を備えた国が存在しないことも、むしろ好都合と考えればいいのです。アメリカ軍の上に国 際組織の旗がひるがえるようになったとき、その国際軍は地球の上に戦うべき敵国を失います。あとは国際組織の内部から、どの程度の反乱が起こりうるか、そ れを鎮圧するにはどの程度の軍事力があればいいかを考えればよいことになります。こうしてはじめて軍縮が具体化します。


日本の平和憲法が輝くとき

 日本国憲法の第九条は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と 規定しています。さらに続く第二項では「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」となっていますが、こちらの方は解釈改憲という、まことに日本的な ご都合主義で無視されています。朝鮮戦争に直面したアメリカは日本を再軍備させたかったのですが、日本の政府は警察予備隊から出発して保安隊、自衛隊へ と、軍隊・の・・よう・な・・ものを作ることで間に合わせて今に至っているのです。それでも憲法が日本の軍事大国化を防いだことは明らかです。
 講和条約が発効して独立を回復するとき、日本はアメリカとの間に安全保障条約という名の軍事同盟を結びました。これも当時の国際情勢の中では他に選択の 余地はなかったのでしょう。結果として日本は、アメリカに保護される形で平和を守りながら今に至りました。しかし、もし日米安保体制がなかったら日本は他 国の侵略を受けたかというと、それは大いに疑問だと私は思います。第二次世界大戦後、他国を侵略した明確な例は中東戦争と第一次のイラク戦争しかありませ ん。アメリカ軍がいない日本でも、わざわざ海を渡って攻めてくる国があったとは考えにくいのです。
 アメリカにとって日本が重要なのは、ロシアから北朝鮮、中国、アラブ諸国へとユーラシア大陸を横断して連なる「不安地帯」の東側の抑えとなる場所に、日 本が位置しているからです。そこで世界戦略の前進基地をここに置き、司令部としての機能も充実させたいということになってきました。これらはすべて軍人の 頭で考えた戦略で、万全の軍備を整えることで有事の際の完勝を狙っているのです。それはアメリカにとっての安心ですが、相手方にとっては不安材料に違いな く、これで世界が平和になるわけがないのです。
 人が武器を欲しがるのは、安全が信じられないときです。世界の軍縮は、世界の人々が安心でなければ絶対に実現は不可能です。世界の人々を安心させる最大 の責任を負っているのは、現に最大の軍事力を保持しているアメリカに他なりません。できればアメリカが日本の憲法第九条を採用してくれるといいのですが、 アメリカ議会は認めてくれないでしょう。ならばぜひ、世界連邦憲法に日本国憲法第九条の精神を取り入れて貰いたいものです。そしてアメリカが世界連邦憲法 を批准したとき、アメリカの軍事力は、はじめて世界平和の守護神になることができるのです。
 銃は、銃口が自分に向いたら恐怖ですが、自分が銃身を握ったら頼れる安心です。世界連邦の平和維持に役立つのならば、軍事力は怖いものでなくなるでしょう。そして怖いものでなくなったときに、人は武器を要らないと思うことができるのです。


いつの世にもいた「ならずもの」

 世界から大規模な戦争をなくすことは、人間が理性的に行動できるなら、それほど難しいこととは思えません。戦争をしない時代が一世紀もつづいた ら、軍備の廃止も本格的に進むでしょう。犯罪に対処する警察力、現代の感覚で言えば装甲車と機関銃、少数の短距離ミサイルと武装ヘリコプター、立てこもり 犯を失神させる神経ガス程度の武器を限度として、それ以上の膨大な武器が不要になります。軍備に使われていた予算が世界の貧困を救うために使われる、それ は人類長年の夢の実現です。「その昔、世界はいろいろな国に分かれていて、お互いに戦争をして殺し合うという、信じられないことをしていました」と歴史の 教科書に書かれるのは、何世紀の頃になるでしょうか。
 一方、戦争よりもはるかに根絶が難しいのは、一般的な犯罪と、特殊な価値観を持つ集団によるテロ攻撃です。犯罪の歴史は、人間の歴史と同じだけ長いと言 われます。殺人、盗みなどは、どの文明でも昔から犯罪とされ、それを犯した者には罰が加えられました。社会が高度化するにつれて、個人に対する罪の他に、 社会に迷惑を及ぼしたり、国家を危うくするような行為も罪とされるようになりました。近代的法治国家は、すべて法律によって、何が犯罪であるかを決めてい ます。
 親密な家族の間や山村の部落など、小さな集団の中では犯罪はほとんど起こりません。個人間の意見や利害の衝突があっても、顔見知りの間では大半の問題は 話し合いで解決ができ、人々は調和して暮らすことを選びます。時に問題がこじれると、かえって対立が深刻になる場合もありますが、それは例外的で、よく 知っている間柄では犯罪が少ないのが普通です。その反対に大勢の人が集まる都会では犯罪率は上がってきます。人間関係が希薄で匿名性が強くなり、話し合い で問題を解決する機会が少なくなるからです。欲望を理性で制御する力の弱い人がいる限り、犯罪の根絶は難しいでしょう。
 人は、それが悪いことだと知っているときは、それほどひどい悪事はしないという逆説があります。社会にとって、より大きな脅威になるのは、それがよいこ とだと信じ込んで行動する確信犯による犯罪です。社会への不満は、民主主義が機能していれば、少数意見を尊重する討論を通して解消される筈ですが、社会的 に受け入れの難しい特殊な信条に固まった人たちは、孤立せざるをえない場合があります。そういう人たちは、合法的に社会を変えることに絶望して、暴力に訴 えてでも主張を通そうとするかもしれません。近代的民主国家でも、国家を転覆させたり、社会を混乱させたりしようとする行為を犯罪と規定しているのはその ためです。寛容(民主主義)は、非寛容(非民主主義)に対して、無制限に寛容であることはできないのです。


犯罪を病気として扱った国

 一九世イギリスの風刺作家、サムエル・バトラーが書いた「エレホン(Erewhon)」という空想小説があります。題名はNowhere(どこに もない)を逆に綴ったもの(ただしwhは一音扱いでそのまま)です。これは機械の発達を一定のところで止めた、一種の理想郷を描いた作品ですが、この国で は病気が犯罪として取り締まりの対象になり、犯罪が病気として手厚く看護されるという記述が出てきます。病気が犯罪扱いされるというのは、隠すことでます ます悪くなるということはありますが、荒唐無稽な設定というのに近く、著者の主眼が、犯罪が取り締まられ社会から隠蔽されることでさらに深まり再生産され る現実を風刺することにあるのは明らかです。
 とにかくエレホン国では、犯罪が起こると犯人は患者として丁重な診察を受けます。親族や知人はこぞって同情し、お見舞いを持参して犯人を慰め、早く直る ようにと勇気づけます。さまざまな治療の甲斐があって社会に復帰しても大丈夫となると、人々は盛大に退院を祝い、心から歓迎して、以後の生活に不安がない ように協力を惜しみません。
 このような犯罪への対処が行われたら、現代でも、犯罪の発生率とくに再犯や累犯の率は大幅に減らすことができることでしょう。犯罪の原因を犯人の立場で 綿密に研究した上で対策を考えれば、もっとも適切な防犯も可能な筈です。犯罪の誘因は、社会のどこかに歪みとして蓄積していることが明らかになるでしょ う。さらに犯罪者を二度と同じ誤りに陥らせないように、周囲の人たちがよく事情を知った上で、温かく見守ることが欠かせません。性犯罪などでも恥じること なく、本人も周囲も弱点をよく知った上で誘惑を遠ざけながら生活させれば、社会全体はずっと安全になるでしょう。
 こうした対策は、個人による一般犯罪だけでなく、確信犯によるテロ犯罪についても、さらには戦争についても、同じように有効と言えそうです。犯罪者の出 現は、その社会が抱えている欠陥や矛盾に対する警鐘なのかもしれません。社会全体を一個の人体と考えるなら、犯罪の発生は体のどこかに病巣があることを知 らせる発熱です。早期の対症療法はもちろん必要ですが、発熱が何に由来するかを突き止め、大病にならないうちに治療することは、それ以上に重要です。
 ここまで考えると、世界全体が繰り返してきた戦争や紛争も、人類の病気だったのではないかと思えてきます。不平等、貧困、搾取、抑圧など、病気の原因と それが発する不快な症状は、二千年の歴史を重ねても解消せず、あまりにもはっきりと私たちの目に見えています。人類は医療を発達させて多くの病気を制圧す ることに成功しました。人類全体の病巣にメスを入れて健康体にすることが、できない筈がありません。


危険なエリート白人集団の反乱

 名称はどうであれ世界統合組織が設立された後の世界を考えると、設立後の比較的短期間のうちに、有色人種の人口が圧倒的多数を占めるようになるこ とは確実です。そして現在の人口増加率から推測しても、有色人種の優位は相当長期にわたって継続することが予想されます。人口の圧倒的優位は、どのような 調整方法を用いようとも、政治的な力関係に反映せずにはいないでしょう。それまでに人種間の通婚が進んで、人々の人種に対する意識が薄まることはあるで しょうが、皮膚の色へのこだわりが簡単に消え去るとは思えません。とくに長期にわたり歴史の主人公を自任してきたアメリカ・ヨーロッパの白人社会は、人種 または民族の誇りと無縁でいられるでしょうか。
 世界組織が成り立った後に起こりうるもっとも危険な反乱は、白人エリート集団によって引き起こされるのではないかと私は思います。有色人種優位の世界の ありように不満を抱く白人集団が、民主的な手続きでは主張が容れられないと絶望したとき、暴力に訴えてでも政権を奪取したいと思ったらどうなるでしょう。 彼らには知能すぐれた人材が多くあり、政府や軍部の要所につながる人脈もあります。各種の有力な企業を支配下に置き、最先端の科学技術を自分のものにして います。秘密を守る、あるいは反対を封じる情報操作にも長じています。必要とあれば、核兵器を持ち出すことも不可能ではないかもしれません。こういう人た ちが決起したら、クーデターが成功する確率は高くなります。
 私が世界連邦を構想したときに、繰り返しアメリカを主役にすることを説いたのはこのためです。白人の反乱という最悪のシナリオが展開した場合にだけ、世界には核戦争と大分裂の悪夢が再来するのです。
 白人がそこまで追いつめられる状況をつくり出すかもしれない要因の中でも最大のものは、白人に対するイスラム教徒の反感です。世界組織の中で現在の先進 国が少数派になったとき、積年の恨みが旧先進国に対する不公正な圧迫になっては困るのです。そのためにも、イスラエルとアラブ・イスラム諸国との共存を急 がなければなりません。対立の根本原因が国境問題であることは、はっきりしています。国連が承認した国境線をイスラエルが尊重する姿勢を示すことが、話し 合いの出発点になるでしょう。パレスチナにどんな政府が出来ようと、まともな話し合いができないままでは、世界にとって中東は最後で最大の病巣として残っ てしまいます。
 中東問題はユダヤとイスラムの宗教対立になっているのは事実ですが、その本質は領土問題であり、宗教が問題を一段と深刻にしているのです。ユダヤもイスラムも、元をただせば同一の神を戴く兄弟の関係にあります。領土問題の解決は、確実に宗教の対立を緩和するでしょう。



人類最大の敵は人間の中に

 有名なユネスコ(国連教育科学文化機関)憲章は、その冒頭で「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなけれ ばならない。」と述べています。そして戦争は「人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代わりに、無知と偏見を通じて 人間と人種の不平等という教義を広めることによって可能にされた」と続けています。まさにその通りだと思います。
 この原則は戦争ばかりでなく、人間の個人間の争いや犯罪にも十分に適用できるものです。しかしこの章の最後に、少し違った視点からも人間を脅かす要因を 考えておきたいと思います。たとえば交通事故をはじめとする人の過失で発生する災害は、犯罪の一種ではあっても、人の心に生まれる悪意が原因とは言えませ ん。現代の社会システムが求める制御能力に対して、人間が時として適応し損なうことから生まれる、新しいタイプの災害です。こうしたミスマッチに対しては 科学技術を駆使した対策がとられるでしょうが、人間の不完全さを克服することは、おそらく永久に不可能でしょう。
 犯罪に対しては、社会のIT化が歯止めになる可能性があります。指紋よりも正確で簡便な個人識別技術と、公的機関による個人情報の蓄積が進めば、匿名性 を武器とする犯罪者の行動の自由は、かなり有効に制限できるようになるでしょう。個人情報を把握されることに対して抵抗を感じる人も少なくないでしょう が、要は社会の安全と個人の自由とのかねあいの問題です。さらに自由とは、必ず匿名性を必要とするものでしょうか。自らを明らかにした上で自由に行動でき る社会の方が、より高度に自由であるように私は感じます。犯罪者になる自由も個人の基本的人権に含まれるのか、そのあたりの基準は、その時々の社会の安全 性によって変動するでしょう。
 それよりも将来大きな問題になりそうなのは、法律に触れる以前の、社会全般にわたるモラルの低下です。節操のない資本主義は、提供する商品と情報を通し て、絶えず人々を努力せず、深く考えず、便利で手軽で快適な生活へと誘導しています。現代の若者は、過剰に提供される選択肢の前で自分を見失い、どれを選 んでも満足せずに落ち着かず、果ては思考停止に陥ったりしています。社会のIT化は孤立した個人を増やすとともに、ちょっとした目新しさに付和雷同する大 衆をも作り出しているようです。
 二十世紀における教育の普及が人類を活性化して、現在の高度に発達した文明社会を築き上げました。二十一世紀以降のIT化が、人間の新しい「無知と偏見 と不平等」を生み出すようなことがあってはなりません。人間は人間である限り、自らの欠点を克服するために、永遠に戦いつづけなければならないのです。

鵜飼俊男の感想

素晴らしい人。すばらしい意見。


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