2008年9月24日水曜日

志野原生氏http://www005.upp.so-net.ne.jp/shigas/WELCOME.HTMより


佐久間艇長遺書


「陛下ノ艇ヲ沈メマコトニ申シ訳ナシ。」うらおぼえであるが、佐久間艇長の遺書はこんな文言で始まっていた。演習中事故に遭いついに浮上 できなかった潜水艇艇長が司令塔の薄明かりの下で綴った経過報告書である。達筆の楷書であった。しかし次第に呼吸困難になったのであろう、文字が乱れ始め 最後は「〇〇に酔うた。」と書き残した。私事には一切触れていなかった。〇〇とは炭酸ガスかガソリンだったように覚えるが確かではない。
海軍軍人であった伯父の遺品に遺書の複写版を見つけ読んだのは小学校時代である。海軍は武人の鑑としてこの遺書を教育に使っていたのであ ろう。死が確実に迫ってくる中で冷静に部下が最後まで手動ポンプで排水に勤めた状況を記録している。死亡何分か前でこんな姿勢をとれようかと時代を超えて 彼やその部下たちの強靱な軍人精神を尊敬してしまう。
その事件があったのは明治時代である。その頃の大気中の炭酸ガス濃度はまだ300PPMをかなり切っていた。それが今では340PPMを 越し来世紀中頃では600PPMだという。とてもそれまでは生きていないから知ったことではないと云えばそうだし、またそれが対策を鈍らせている最大の理 由でもあるが、知識としての炭酸ガスの温室効果は世間に広く知れ渡るようになった。
この濃度は佐久間艇長が味わった呼吸困難を引き起こすほどではないが、海面は上昇し、砂漠化が進行しと、ろくでもない話にしか結びつかな い。危ない熱バランスに乗って生活する我らが、起こってからではどうしようもない人工的温暖化を防ぐには、炭酸ガスが気にならない人たちを強制しなければ ならない。「えた、よつ、非人」で意識改革は百年単位と言ったが、これではもう遅い。強制手段やむなしの意見統一を早くやらねばならない。
私が自身の死後の地球を憂うのは、直接には血族にその頃も生きているはずの人間がいるからだと思う。近頃シングルを優雅と心得る人たちが 増えているが、そのような人々は社会を民族を地球を長い単位で考える事ができるのであろうか。私の現役時代は、いつまでもシングルでいる人たちへの社会の 信頼度は一般的には低かった。長期思考の不足、変わり身の早さ、周辺への配慮の欠如などについての総合的評価結果である。どの生物を見ても究極は子孫を残 すために生きていると云える。今を謳歌しているシングルの方々よ、生命の大目的に忠実であって欲しいと思う。

('97/09/14)


野蛮人の階級

野蛮人の階級


伊達博物館で朝鮮通信使の接待覚え書を見たのが契機になって朝鮮植民地化の歴史を勉強する気になった。
藩の財政が傾くほどの饗応を受けた朝鮮通信使のご一行は詳細な見聞録を残している。鎖国を国是としている国から例外中の例外で日本に旅行したのであるから当然である。彼らの日本評論の一部を古田博司「朝鮮民族を読み解く」ちくま新書, 1995 に見ることができた。
「婚姻は同姓を避けることなく、同祖の兄妹が互いに嫁入り、嫁取りをする。兄嫁や弟の嫁も寡婦になれば、ひきいて養う。淫穢の行いは、す なわち禽獣と同じである(海遊録)」。海遊録は平凡社の世界大百科辞典によると合計23冊に及ぶ日本紀行記中の白眉だそうである。その他別人の5件ほどの 引用も似たようなもので日本人はその風習から見て野蛮人そのもので犬猫の類だそうである。「きりがない(ほど罵倒の引用ができる)」とあった。
古田先生によるとこれは国学に朱子学を採用し徹底させた当然の帰結だそうで、それに元々日本は倭の国だからでもある。朝鮮人は東夷つまり 中華から見て東の夷だと自称する。倭はやっぱり野蛮人の意味だから野蛮人どうしでどう違うんだいと思った。野蛮人にもグレードがあって倭の方が夷よりもっ と野蛮なのだという説明だった。野蛮人にも階級があるとは初めて知った。
ついでながら沖縄は朝鮮よりも中国明王朝での順位が高かった。彼らはそれを小中華といえる自分らに比べて沖縄の後塵を受けることに切歯扼腕するのである。やはり倭の女真族の末裔の国清は宗主国でありながら彼らの内心では朝鮮の下に見られている。
死後の世界はあの世である。それは我々の場合で彼らのネオ儒教朱子学の場合は違う。死霊はこの世にとどまるのである。死霊と共にある人々 つまり祭祀を行える人たち堂内(チバンというそうな)は鉄壁の団結と秩序を誇る。婚姻にまつわる秩序などは序の口である。江戸時代の我が国は今に比べたら すばらしく道徳的な社会だった。しかし通信使の目では日本人はご指摘に関しては確かに豚か鶏である。
「人民の念願を輝かしく実現して下さったことにより、我が人民は首領様を慈父として限りなく尊敬し、高く仰ぎ奉り、首領様に忠誠と孝養を 尽くすのです。」堂内を祭祀の起点とする集団、宗族の首領は今は北では金正日閣下である。一般家庭での祖先の祭りは廃れ国家がその位置に来るように指導さ れている。韓国大統領も発言録に宗族の民族への拡大に心を配っている様子が示されている。坊主を賤民に落とし、埋葬に手落ちがあると百叩き、下手すると打 ち首にまでして朱子の礼を徹底さした国なので人心の改革帰還は大変である。
百二十年前抜きがたい一方的な日本侮蔑感の下で新しい関係が始まった。日本側の朝鮮侮蔑感は植民地化の過程で生まれたあまり歴史のない感 覚であった。一読してつき合うのに実に困難な民族だと思う。しかし著者は、'92年に韓国を訪問したとき、レストランで一人で飯を食っている人間(もちろ ん韓国人)を発見したと云ってびっくりする。その意味の説明が長々と続くのだが、要は将来の日韓関係に明るい日差しを感じさせる挿話なのである。訳を知り たい方はどうぞこの本をお読み下さい。古田氏のこの著書は多くを示唆してくれるいい本である。

('97/09/12)
















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