2008年9月27日土曜日

志野原生氏http://www005.upp.so-net.ne.jp/shigas/WELCOME.HTMより

自転車失敬


買ったばかりの自転車が盗まれた。鍵がこじ開けられ住まいの駐輪場から持ち去られた。ところが防犯登録のおかげで一月ほどしてから出てきたのである。連絡をしてくれたのは派出所巡回のお巡りさんであった。私の家から10kmほど離れた新興住宅街からである。
自転車には新しい鍵が付けられハンドルは盗られる前とは角度が違っていた。明らかに盗人は自分の車として使うつもりであった。よくもまあ 見つけだしてくれたものである。盗人は高校生でチラと見たら始末書に父親の念書らしいものが見えた。だいたいは想像できる手順で父親の保護観察程度の処分 であったらしい。
盗人について私の知っている内容はその程度である。本人はもちろん保護者からの挨拶も一度も来ない。直接行けば恐ろしい目に遭うかも知れ ぬと懼れているなら巡査を通せばよい。なぜ謝りの伝言一つ巡査に言伝できないのだろう。私は無記名のハガキ一つでも貰ったらそれで水に流せるのにと腹を立 てている。
始末書を書いたら社会的制裁は終わったからあとは晴れて無罪放免で、社会からは平等に扱われるべき身と考えるのが現世風なのであろうか。 犯罪歴がありながら大臣になって償いは執行猶予期間が過ぎたから終わったという議員がいたが、そんなに甘くなかったことはついこの間第二次橋本内閣閣僚辞 任劇で立証済みである。社会の、犯罪に対する怒りは決して甘いものではなく、加害者の被害者に対する道義的責任の取り方が社会から許されるか否かの目安に なると私は思っている。
司法の処置に加害者に対する責任の取り方を何らかの形で配慮すべきである。私的制裁では公正が保てず過激になり易いであろうから公の手で 裁くのだろうが、基本は被害者の受けた痛みを癒す償いであるべきで、被害者には品が返ったから文句無かろう、法に触れた点は警察官に謝って終わりでは本来 の司法の目的にそぐわないように思うがいかがなものか。

('97/10/24)




大多喜藩廃藩の頃


大多喜城址に天守閣の姿に造られている県立総南博物館を見る。藩校・私塾・寺子屋-近世房総教育史-なる特別展を開いていた。
千葉の大名はいずれも小藩で大多喜城開祖の本多忠勝も十万石である。最後の松平氏は二万石だった。学は藩により奨励された。ことに維新前に競って開設したから藩校数は一県としては大変に多い。朱子学の系列が多い。しかし佐倉藩のように蘭学、医学を特徴とする学校もあった。
私塾寺子屋も700を超える数であったという。学制改革後の小学校の初期の就学率が3-4割程度と書いてあった。百何十年前の開発途上国 としてはこれは異常に高い数字と云わねばならぬ。小学校の整備に土地の有力者たちが尽力したという記録があった。同様の記録を京都の市井の小学校の創立趣 旨にも、宇和町や松本の開明学校の解説文にも読んだ覚えがある。我々の先輩は教育についての理解度は抜群であった。
大多喜藩の事業の中で特筆すべきは千葉県最初の水道を開削したことである。城下を流れる夷隈川の清流はあいにくと深く平地をV字状に浸食 した渓谷である。お城に残る井戸は大きく深い。住民の方も同じだろう。水質も良くないそうだ。住民は川の水を汲み上げるためにたいへんな重労働を強いられ た。明治に入り廃藩寸前の時期に藩主は水道工事を命じ奥谷より水を引いた。半年でやり上げた工事だそうで、その水トンネルの跡をお城の駐車場の近くに見る ことができる。博物館のビデオは子供用でまどろっこいが親切に工事の跡をたどって説明してあった。山奥の工事跡は今は雑草に隠れて、辿るのも大変のようで ある。昔私が別子銅山の廃道跡を辿ろうとしたときの情景を思い出した。
大多喜藩二万石の侍の家は220戸だった。話は飛ぶが、私はいま琉球の植民地化の理由を勉強している。琉球は6-9万石であるから多くて も1000戸である。日本は侍は文武両道であった。しかし沖縄では文官武官が分離し、文官が実権を握っていた。それが琉球王国版図一帯の諸島に分散してい たから兵力上もまず島津とは対抗できなかったであろう。400年近い昔の話である。何を考えるにも実感が伴わない。その意味で、地理的に遠く離れしかも島 津侵攻後250年は経た大多喜藩でもなにがしかの考える材料を提供してくれる。

('97/10/19)

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