2008年9月25日木曜日

志野原生氏http://www005.upp.so-net.ne.jp/shigas/WELCOME.HTMより

OB会
OB会 (画像) 現役を引退してから数々のOB会に顔を出している。小学校から大学までの、生徒学生として学んだ仲間たちの集いは勿論だが、職業人としての同窓会もたくさ んある。 大学の卒業送別会で、古参教授が一度就職したら女が嫁入りしたのと同じで生涯そこで励めとテーブルスピーチしたあとで、アメリカ帰りの若手教授は気に入ら なかったら帰ってこいとやって満座を笑わせた丁度就職観が変わり始めようとする頃、私は財閥系会社に就職し、以後、子会社への出向、学校への移籍はあった が、ついに定年まで一度も自己都合による退職はやらなかった。 その会社には昔から綿々と続くOB会があり、会社の強力なバックアップで機能している。OB会は一つだけでなく幾つもある。旧財閥全体のもの、その会社全 体のもの、子会社だけのもの、事業所単位のもの、ここら辺までは公式のものだが、あと私的にその時のヘッドを囲む会が幾つもあって全部出席すると大変であ る。自己都合退職者は会員にはなれぬ。つまり企業への忠誠心が最低の会員の条件である。 子会社にもいろいろある。親会社の影響力が低いところほど出向者は異文化体験することになる。持ち株比率50%以下の子会社に出向移籍したOBの会と言う のが誘ってくれたので出かけていった。私が移籍になった国立の学校は持ち株比率ゼロ%だから会員の資格があるというのである。 出向移籍は概していい結果を生む。過去のない世界では実力一本だから何となくぬるま湯にいた人たちが目の色を変えて働くからである。そういう人たちの集ま りだから親会社の悪口会なんだと隣に座った人は云っていたが、出てから永くなっているから知っている親会社も過去になって、結局昔話に花を咲かせて終わっ た。 OB会など退屈で共通の話題は過去しかなく出席に意義を感じない人も多いだろう。そのOB会の出席率は50%だったからまあよく集まった方である。大都会 だと人人人だけれども住んでいる人は田舎以上に孤独である。皆てんでバラバラで勝手に生きているから、互いに助け合う場がほとんど無くお隣の主人すら見た ことがない。今更OB会などと思ったが、都会砂漠に住む人々には良いオアシスになっているのかも知れぬ。 これからはますます核化して努力しなければ周囲に誰もいない人間になってしまう。私は結果的に終身雇用であったが、個人の努力だけでは多分できなかった数 多くの知己を一つの会社に「我慢」したことにより作れた。平均して引退後20年近く生きねばならぬ。その分を考えて重厚な会社に誠実に最後まで勤めるのも 一つの道である。 ('97/10/06)
コメント
ラベルを追加
お年寄りは輝いているか
お年寄りは輝いているか (画像) 韓国に滞在した人たちはその土地のお年寄りは輝いて見えるという。一家の食事はお年寄りが箸をつけぬ限り始まらないし、乗り物ではお年寄りに席を譲らぬ人 はない、と聞かされる。中国では親の扶養は義務である。そのシステムはそれなりに老人に安心と余裕を与えるであろう。 私たちの大半は核家族で、二世代三世代で暮らしている人はわずかである。だから食事の作法の老若間の躾などは一般にはもう伝わっていないのが普通である。 正月とか法事とか行事めいた会食の時だけは昔の作法が頭をもたげる家庭もある程度ではないか。いつもは同居していても老人は引退者として遠慮がちである。 乗り物のシルバーシートはいつの間にか関東では廃止になった。我が国では老人と分類するされるのには幾分抵抗感が伴うようである。混んだ乗り物の中で席を 譲られる老人ははたから見て誰でも弱者と認められる人である。矍鑠とした人は無視されまたそれを多分本人は当然としている。 四十何年か昔私らは大台ヶ原を抜けて瀞峡へ向かっていた。バスは混んでいた。すると座っていた婆さんが二十台になったばかりの私らに席を譲るというのであ る。土地の人間だから山道のバスは慣れている、おまえたちはたいそう疲れているようだから遠慮するなと無理矢理一人を座らせた。座らされた男はすっかり恐 縮して外ばかり眺めておった。 百の説法よりで私はそれからは弱者らしき人特に婆さんには席を自然に譲ることができるようになった。 ハワイのバスは前半分はシルバー用になっている。空いているときは誰でも座れるが混みだして老人が入ってくると替わらねばならぬ。替わらないと運転手が大 声で注意する。やられるのはそんなルールを知らない観光客たちである。私は髪の毛が白いせいか老人扱いになった。なんだかあまり嬉しくなかった。でもシル バーシートなんて名前だけ付けてあとは乗客の勝手にさせるよりははるかによい。張り紙だけでお茶を濁す程度ならルールなど作らなくて良い。ルールを破るな ら運転しないぐらいの迫力で乗客に迫るのでなければどんな運動も有名無実に終わってしまう。 家族に老人が居らぬ。親は実践で接し方を子供にやってみせるチャンスは少ない。いっぽう確実に老人だけの所帯は増加している。教育の出番が来ているのでは ないですか。 ('97/10/04)
コメント
ラベルを追加
京都帝国大学の挑戦
京都帝国大学の挑戦 (画像) 博覧強記を強いる教育から創造性重視の教育を、というのは今のマスコミ全般の論調である。外国からの導入できるものはもうとっくに仕入れてしまった後では 日本オリジナルが今後を左右するのは明らかであるから。 しかし百年前マスコミも入れて日本は折角芽を出し掛かった創造性重視教育をよってたかって潰してしまった。数少ないノーベル賞フィールズ賞の受賞者の大半 がその大学関係者であることにわずかにその教育の余香を嗅ぐことができる。「京都帝国大学の挑戦」とはそんな内容の本である。京都帝国大学の法科大学の 話、今の京大法学部である。著者は名大教授である。 当時の法科大学卒業生はまずは高文合格を目指す。今の国家公務員一種である。だから博覧強記が当たり前で週30時間4年間与えられたとおりのカリキュラム で必死に講義ノートを取り、丸暗記して試験に臨む。試験では師説どおりに記述せず私説を論じたりするとまず合格はおぼつかないと言う教授もままおったとあ る。東大に関する記述である。 新設される京大の教授に任命されたのは東大を優秀な成績で卒業しそろってドイツに留学した若手が大半を占めていた。ドイツは当時学術のメッカで世界から留 学生が集まる場所であった。日本留学生はドイツ学術の隆盛の神髄を大学の制度の中に次のように見いだす。 大学に十分の自治を許せるごとき、教授方法を自治に任ずるごとき、学生に科目選択の自由を与えるごとき、試験制度をもって学生を束縛せざるがごとき、教授 の選任を教授会の投票に委任するごとき、学生に自由転学を許すごとき、生気ある学問研究を重んじる精神の発動に出たるものにあらざるはなし。けだしドイツ 人は・・・・・学問の進歩、人物の養成は拘束を脱せしめ、自治自修自制の精神を発揮するにありとなせるもののごとし。 学生どもをできるだけ自由にさせる代わりにゼミナールと卒業論文でばっちり締め上げる。世間はおおむねこの新進気鋭の学者たちの理想を好意的に受け止め た。何だそんなこと今では当たり前だ、と思うのだがその内容は東大とは全くかけ離れた方式だったのである。 しかし卒業生たちの高文試験の結果は東大に比べてさんざんだった。ほとんど合格ゼロなのである。官吏登用試験目標と学問人物目標では当然かも知れぬが、 ちょっと差があり過ぎるというので著者は原因を追及する。 学生の質が悪いのではないか。そこで同じ高校からの学生の高校時代の成績を比較する。あまり変わらぬ。結局行き当たるのは選考委員が全部東大教授ないし卒 業生と言うことである。今でも同種の問題が時折表に出るが、「師説でなければ落第」式の評価をする場合に限らず、東大生は試験官が教える予備校生だから全 く有利と云うことになる。これはこの東大出の著者が云っていることである。 高文の結果は京大の首を絞めた。東大、政府、議会それから新聞に叩かれて創造性重視教育法は幕を下ろし総長学長教授は辞任、京大は第二東大の道をたどり始 める。高校生の人気はがた落ちとなり一時は定員を満たさぬ大学になった。 もったいないことをしたものである。教育法の評価に高文合格者数しか頭になかったためか、とことん純粋宗族(この場合は東大100%)でないとおさまらぬ ためか、あれほどドイツに傾倒しながら大学の自由だけは許せぬ神国であったためか、とにかく日本は100年経って臍を噛む結果になった。以前に云ったこと だが、5%の共産党(少数派のこと)は脱線転覆を防ぎ場合によっては救世主になる可能性を残すという意味で必要である。 京大はそれ以後も大学自治について何度か文部省といざこざを起こした。鳩山一郎との確執は滝川事件として有名である。彼も大学の自由を肯定できなかった。 いま彼の孫たちが同じ大学を出て政治家になっている。彼らの滝川事件論を聞いてみたいものである。 進学の相談を受けたときには話題にして欲しい一冊である。 ('97/10/02
足助の民芸玩具
足助の民芸玩具 (画像) 名鉄西中金で下りバスに乗り換えて15分も行くと昔の宿場町足助に到着する。近代化以前は飯田街道に三河からの足助街道がつながる交通の要所であった。紅 葉の名所として知られているが、私が訪れたのは紅葉にはまだ早い季節であった。 山間の渓流に沿った細長い集落で観光地として以外に取り立てて云うほどの産業はないようだった。旧街道筋の町らしく古い家並みや寺々お宮が過去の繁栄を物 語る。山の手に向けて両脇を土蔵が並ぶ狭い路地があって、その風景をカメラマンが何人も写真にしていた。丁度お宮の祭礼の日に当たっていた。子供御輿が通 るのを見た。 三州足助屋敷という今風に云えばテーマパークがある。明治の豪農の家を再建し、当時の生活を実演してみせる。自給自足に近い生活だから何でもある。その一 角で実用品あるいは玩具の竹細工を実演している場所がった。たいがいの製品はよそでも見られる品だったが、一つだけ目新しい品があった。 長さ40センチほどの竹の柄に鋸のような目をたてる。先端にプロペラを釘で押さえている。プロペラは釘の頭により柄から脱落しないようになっている。釘よ りプロペラの穴の方が緩いため釘の周りをプロペラは楽々と回転できる。 ここで別の竹筒で竹柄の鋸状の目の一方の縁を擦るとプロペラが回転を始める。擦る位置を反対側にすると回転は逆方向に変わる。竹筒の往復運動をプロペラの 回転運動にしているのが何とも面白く珍しかったのでそのおもちゃを一つ買ってみた。 鋸の目は竹筒の直線運動を高い周波数の振動運動に変化させるためである。では何故竹の柄の上下振動が回転運動に変わるのか。どうもはっきり判らない。鋸の 目を通して幾分角度をつけて加えられる力は縦横両方の振動を与える。力は大きさも方向も人の手だから不揃いだ。竹も天然物だから粘弾性体として均一ではな い。それに竹の柄の断面は円ではなく矩形である。これらが釘の加速度ベクトルを回転させる。とまあ一応理屈を付けたが、も一つ釈然としない。どなたか名答 をお願いします。 おもちゃで理由の判らぬもう一つは独楽である。特殊な独楽で、これは京都物産展で買った。回すための芯はあるが回転下面までは突き出ていない独楽で、胴は 半球状である。その球面の中心で回転を始めるが、しばらくすると突然180度ひっくり返り傘をさすような姿で回転を継続する。重力とコリオリの力、さらに 回転軸が動いて断面の回転軸に対する対称性がなくなったために発生する遠心力が、転覆する船の重力と浮力の関係になるように、胴の形状が造られているよう にも思うが、も一つはっきりしない。どなたか名答をお願いします。 (パソコン通信の会議室にこの文を載せたら山崎とおっしゃる方が戸田盛和「コマの科学」岩波新書, 1980を教えて下さった。普通のコマが時間と共に真っ直ぐに立って静止したようになるのと同じで、原因は床との摩擦力がコマを立てるトルクとして働くた めとあった。しかしよく考えるとどうも言葉に誤魔化しがあってますます分からない。定性的にものを教える限界はこんなモンだなと感じた。) ('97/09/17)

老コンサルの残日録
建設業経営のこころ テーマ:ブログ むか~しの話です、復帰直後の沖縄の会社に10年ほどお世話になりました。離島振興の復帰景気に海洋博景気が重なって建設業は沸立っていました。ところ が、当時の沖縄県内業者には施工管理という考えはありません、工事を受注し施工しても赤字が膨らむばかりでした。H建設も同様です、銀行融資の道は閉ざさ れ町金融からの融資でやり繰りしていました。 やがて施工管理レベルが上ってきて、ドンドン利益が出るようになりました、高金利の町金融からの借金を返しましたが、まだ銀行からの借金はカナリ残ってい るんです。ところがH社長はどういう考えか分かりませんが、島内に何台もない超高級外車を買い社長車運転手を雇いました。私は辞めさせてもらいました。 昔の話です。都内で木造住宅建売業者の施工店をやってきたA工務店に10年ほどお世話になりました。元請で箱物(店舗・集合住宅など)を中心にやるように なったんですが、ヤハリ施工管理の意識・知識がなく、売上が増えるほど赤字が増える始末です。施工管理のやり方、提案営業のやり方…を勧め、やがて素晴ら しい会社になりました。でも財務力はマダマダです。 ところが、その頃からA社長の奇行が目立つようになりました。自宅をタダで作ったり(自宅の工事費をお施主様から頂いた請負工事の原価に押しこんでしまう こと)、米国に中古ホテルを買ったり…社員が血みどろになって働いたのに、です。私は辞めさせてもらいました。 余り古くない話です。借金だらけで銀行に苛め抜かれながらも立ち直った関東の会社があります。業態変革をしたものの、総合建設業の経営のポイントが解らな かったようです、やがてそのコツを掴んで蘇生しました。でも、私がお世話になっている他社と較べると収益力・財務力は極めて弱く、例えばその会社の自己資 本は売上が同じ位の会社のそれの20分の1位なんです。オーナーは、会社の状態が水面上に顔を出したのを汐に息子さんに社長を譲り会長になりました。その 後は実務からホトンド離れています。 彼の会長報酬には目を剥きます。他社では、後継社長を真剣にサポートしながらも、その報酬は社長より遥かに低く抑えます。ところが、彼の場合は会社の財務 内容もマダマダ脆弱なのに、現職社長の報酬の何倍?優良同業企業の現職社長の何倍?この地方では超ブランドの別荘地に土地を買い別荘を新築中です。口あん ぐり、何を考えてるんだろ?前期は工事の多くが繰り越し(来期の売上)になったので赤字だったんです。これまでお付合い頂いた会社の社長は、ほとんど、そ んな時には自分の報酬をカットしたものなのに。 私にしたら上記の2社と同じようなニオイを感じます。会長からは『後継社長を宜しく』とは言われていますが、この会社もやがて辞めさせてもらう事になるで しょう。 会社は法律的には株主のものです、中小企業は会長・社長=株主です、が社員がいて初めて会社が成り立っているんです。『会社は公器』です。絶対に会社を守 らなければならないんです、倒産させてはいけないんです。公正な利益を上げ続ける収益力と銀行(悪の権化)に頼らない自己資本を蓄えなけばならないんで す。ソレなのに…。前の苦しい時はソウでもなかったのにどうしたんだろ?やはり上記2社と同じニオイです。 北海道に、誰もが認めるT建設という優良建設業者があります。O会長が息子さんに社長を譲って4年です。O会長の言葉『いい会社を作って50点、チャンと 会社を譲って50点、マダマダだね』。過日のこと、新社長が悪馴れで、どうも会長が社長の頃のような緊張感に欠けてる、タガが緩んでいる、ことに気がつき ました。 幹部会議の席上、会長に言いました『会長、この30年間、会長も私も臆病で気が小さいもんだから、いつも、倒産という恐怖に追いかけられてここまで来た ね、振り返って<ヤット逃げ切った>、逃げ足を少し落として振り返ると<背中をつかまれそう>でまた逃げて、逃げて逃げて逃げまくってここまで来たんだよ ね、ところが最近は…社長はじめ幹部社員は倒産するかもしれない、という恐怖を感じているんだろうか?』。 沖縄のH建設、都内のA工務店、風の便りに聞きました、私が辞めさせてもらって10年位経ったころ姿を消したとか、そこまでは私の責任ではない、と思いま す。ホントに苦しい時代を乗り切った時に『〇〇さん(私の事です)、お蔭様で…、ホントにささやかでお恥ずかしいですが…』、何かをキッカケに私にも特別 賞与を下さる会社がたくさん有りました、そんな時は私も素直に『皆さんが頑張ったからです、有り難うございます』と頂戴します。上記3社には、そんな気配 は微塵もありませんでした。別に、期待してるわけではないのでカマイマセンが。 建設業経営の心と要諦、自分と会社を取り巻く総て(特に社員)に、<お陰さまで>という気持ちの持てない、そして<分相応>を弁えない経営者を頂く社員は カワイソウです。私は、付き合いたくない人(会社)からは遠ざるだけですが、社員はソウはいきません、最後は退職するばかり、ですもの。極めて長文ですみ ません。
鵜飼俊男の感想
最近新境地を開かれたようですね。あるいは・・・なにか決意をなさったか。愛読者としては、貴重な御体験が聞かせてもらえて感謝いたしております。

0 件のコメント: