2008年10月2日木曜日


「老コンサルの残日録」http://ameblo.jp/tkjsk0231hzannitiroku/より

御宿かわせみ


平岩弓枝原作のこの捕物帖がNHKに続き今度はテレビ朝日でドラマ化されている。書店には再ドラマ化記念売り出しの帯封をつけた文庫本が 並んでいる。今全19巻だそうだ。まだまだ書き次がれるのだろう。数十頁程度の読み切り短編が並んでいる。勝手気侭の自由読書には打ってつけの長さのよう だ。
折角お江戸近隣の住民になったんだから土地を身につけたい。四国を辞してこちらへ引っ越してからずっと思い続けてきた。多分ここに永住す る。私はこの捕物帖に乗ってまずはバーチャルに江戸を探検することにした。地図の上で土地勘が働くようになったら、神林東吾の下っ引きになって実地に捕り 物に合わせて歩いてみよう。
お江戸は水運の町である。浪速がそうなのはよく知っているが、江戸も水の都だとは認識していなかった。彼らは大川ほとりの大川端町にある 小さな旅籠かわせみから猪牙(ちょき)と称する小さな川舟で川を遡る。あるときは永大橋を過ぎ仙台堀川を横に見ながら小名木川まで行き、その新高橋から横 川に移って北上、堅川を横切り業平橋で下りる。ここらは押上村でさらに北に行くと寺島村隅田村になる。大名の下屋敷、富豪の別邸がところどころにあるが全 体としては人影の薄い田園地帯で事件の現場としてしばしば顔を出す。
吉原はもちろん千住、日暮里、谷中あたりまでも猪牙を利用している。目印になる神社仏閣が適度に記載され町の名も現在に引き継がれている 場合が多いのでちょっと詳細な東京地図があると行動を追えるように書かれている。町の名、村の名としては消えていても、または埋め立てで堀が無くなって も、注意深く地図を見ると小学校名、駅名あるいは公園名などにそれこそ「名こそ流れてなお聞こえけれ」である。しかし大川端町はなかった。
OB会でこの話をしたら、好きな人が居て江戸の地図解説本をいろいろ推薦してくれた。残念ながらそれらはなかったが、「嘉永・慶応江戸切 絵図」水文社,'95を買った。ビル住宅がぎっしり建て込んだ今日の東京からは想像もできない風景がその地図にはある。大名屋敷武家屋敷は名前入りで、捕 り手たちの行動はさらに生き生きと想像できるようになる。もう一つの発見は、お江戸は神社仏閣で埋まっていたと云うことである。私は京都育ちなので、東京 とは社寺の少ないところだとおもっていたが、当時社寺奉行が置かれたのは当然と感じたほど数が多いのである。大川端町はこの地図で正確に知った。綾瀬川と 荒川の下流が明治以降の改修で付け替えになったから、現在の江東墨田の地図は捕物帖と合わない場所もある。隅田川を大川とも呼んだことは百科事典で初めて 知った。
実は江戸の水運に目が行くようになったのは大利根博物館を見たころからである。その後市川博物館を訪れごく最近では関宿城博物館を見た。大利根では佐原中心に水運と産業の繁栄が展示され、市川には成田詣でのルートが行徳までが小名木川でそこからは成田街道となっていた。私が初めて小名木川の名に出会った場所である。関宿城では利根川の付け替え工事と江戸川流水量の制御による治水の展示が印象に残った。
かわせみの女主人るいを沢口靖子が演じる。年上の日陰の身を愛らしくはかなげに演じる。NHKのるいは真野響子であった。幾分今のるいよりは知的に感じていたのはその人の風貌からか。いつまで続くドラマかは知らないが、当分は私を楽しませてくれそうである。

('97/11/26)


盆の窪


「ぼんのくぼ」とも「ぼんのくど」とも読む。「ぼん」は項(うなじ)の中央部である。項は首のうしろあたり、つまり首筋であるから盆の窪はその中央の凹んだ部分と云うことになる。
「御宿かわせみ」を読んでいると盆の窪が盛んに使われているのに気付く。岡っ引きやその手下の下っ引きが、同心あるいはその上に対して改 まって話をするようなときに、居心地の悪さを隠す仕草として、「盆の窪をさわりながら」と言った表現で出てくる言葉である。最近では滅多に聞かぬし、文字 としても見ないいわば死語である。近頃は誰もが互いに対等でこんな言葉が入るシチュエーションは限られているのだろう。うぶな異性間の仕草にまだ残ってい るかもしれん、いやそんな風に思うのは年を取っている証拠だなどと思って苦笑する。
「御宿かわせみ」にもう一つよく出てくる熟語は平仄(ひょうそく)である。捕物帖だから断片的事実からいろいろ想像力を働かせて犯人を割 り出さねばならない。その思考過程でたくさんの仮説が出るが、全部の事実を満足できる仮説はなかなか見つからない。平仄が合わぬものが殆どである。すなわ ち平仄はつじつまと言う意味に使われている。この言葉も最近では滅多にお目に掛からぬ。盆の窪と同様に、これも一応は広辞苑を引かねば意味に自信が持てな かったから、私にとっては死語同然である。
小説読むと作家の癖に気付くことがある。真田太平記では瞠目であった。驚きを表現する。これはたまに目にすることもあるので死語ではない のだろうが、現代用語でないことは確かである。小説に限らず専門の論文でも癖用語にいろいろお目に掛かる。私の専門では敬語に泰斗(オーソリティ)をよく 使われるそれこそ日本の泰斗がおられて、見るたびにお顔を思い浮かべる。
ゴム用語辞典が刊行された。その中に「たまねぎ理論」と言う項がある。理論かモデルかは議論があるが、「たまねぎ」とは私の命名である。 もう10数年も前にそんな名前である理屈を発表した。生き残って字引に入っている理由の一つはネーミングにあると思う。外国でもその訳語は onion だった。どちらも覚えやすくまた真面目な学会用語としては面白かったのだろう。癖とは個性に通じる。覚えて貰うには中身はもちろん大切だが、作家が何かア カンベしているような用語はまた人を惹き付けるものらしい。

('97/12/4)

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