2008年10月10日金曜日

志野原生氏http://www005.upp.so-net.ne.jp/shigas/WELCOME.HTMより

里見氏170年


鳥取の倉吉に改易になり、嗣子不在のため取り潰しになった里見家は、安房に170年の歴史を持った名家である。館山市立博物館にその概要を訪ねる。
改易の理由は事件への連座である。しかしもともと外様である里見家が、関東に所在すること自体が、徳川幕府にとって剣呑であったから、連座にかこつけて重い処分になったのが実相であろう。改易が決まると館山城の受け取りに大軍が取り囲んだという。
忠臣蔵でも城の明け渡しに軍勢が派遣される。でもその規模は少さく、形ばかりであった。徳川の治世は忠臣蔵の時代には万全になっていた し、赤穂藩浅野家の禄高は5万石で藩士の数も少なかった。しかし里見氏は10何万石かで時代はまだ戦国の息吹が残っている荒々しい時代だった。それから浅 野と違い、長い歴史の結果しっかりと土地に根を下ろしていたであろう。里見氏最後の藩候は、改易先に残した棟札に、堂々と徳川に対する恨みを述べている。
受け取りの大軍は館山城を破壊した。城の構築材は堀の埋め立てなどにも使われた。その出土品が一部展示されている。しかし館山城の実像は あまり明確ではないようだ。堀の位置ぐらいは判っているようだったが。石垣のない土塁でできた中世風の山城のようだ。城山山頂に再建した天守閣があるが、 どの程度本物に近いのか。この天守閣は博物館分館になっている。
里見氏の最大版図は千葉県一帯で、時期は戦国時代、関東の覇権を賭けて小田原の北条氏と国分寺台で二度にわたり大合戦を行った頃である。 県立中央博物館や市立市川歴史博物館に行くと合戦の模様が細かに説明されている。二度とも敗れたが、その後も上総と安房は確保し続け、久留里城を本拠とし た。久留里城も険しい中世風の山城だった。しかし秀吉に安房一国に押し込まれる。後から来た徳川が目の上の瘤と感じるだけの歴史がある。
つわもの里見氏の夢の後をひととおり見て歩いた。倉吉は高専最後の頃に側を通り抜けた程度で見ていないが、墓所はそこに残っているそうで ある。墓所だけでも残ったらよしせねばなるまい、最後が戦国時代なら何も残らなかったろうから。安房の国はその後は旗本などの知行地に細分され統治され た。この条件では特色ある地域文化は育たなかったようである。

('97/12/29)

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