2008年10月8日水曜日

志野原生氏http://www005।upp।so-net.ne.jp/shigas/WELCOME.HTMより


来年の恋人


吉永小百合は「おはん」の頃が、一番女優として脂が乗っていた時代ではないか。写真集の中の、何か遠くを見るような目つきで、着物姿のお はんが屋根に腰掛けた姿は色っぽくも美しい。しかし長い間私の恋人であったその彼女も年を取り、もうスクリーンにもテレビにも現れなくなり、過去の懐かし い人に成り始めた。
年末、各書店に沢山来年のカレンダーがぶら下がっている。一つ目を引くのがあった。沢口靖子のカレンダーである。他に着物姿のカレンダー がなかったせいでもある。今までは業者から年末に贈られるカレンダーで間に合わせていたから、お金を出して買うのは初めてであった。1400円あまりの出 費であった。
彼女が目についた一つの理由は、今テレビで「新・御宿かわせみ」に出演しているからである。なかなかの好演なのである。めずらしくも原作 よりも上品に演出されている。例えば原作には仲の良さをしばしば恋人の膝をつねる動作で書き表しているが、テレビにはそんなシーンは今のところ出てこな い。それでいて日蔭の姉さん女房らしい抑えた色気がほんのり匂うように演技している。
カレンダーの彼女は現代のきもの美人である。「御宿かわせみ」の彼女とはずいぶん印象が違う。化けれるのだなあと感心する。
表情、化粧はさて置いて、形から相違点を探す。一番違うのは髪型だろう。カレンダーでは和装用の洋髪だし、かわせみでは町娘の日本髪であ る。この日本髪も純江戸風ではなく現代風である。帯の結び方も現代に合わせている。江戸東京博物館の三井越後屋の模型にはたくさんの女性人形が店を出入り しているが、テレビで見る女主人の姿とはちょっと感じが違う。まあかわせみは肩の凝らない捕物帖だから、現代人に違和感のない和風を心掛けているのであろ う。ただしテレビのきものの柄は時代に合わせてある。
知り合いなら、どんなスナップ写真からでも正確に人物を思い浮かべられる。しかし見知らぬ人を一枚の写真から想像するのはなかなか難し い。やっぱりその人らしさを演出なり修正なりで出さぬと、お見合い写真なんかは成り立たないのではないか。自然に写っているからと云って素人写真を渡され る場合もあるが、身内の感覚が必ずしも相手の感覚でないことに注意すべきである。

('97/12/19)



茄子のしぎやき


茄子を油で炒めるか、油を塗って焼く。それを味付け味噌で食う。田楽の一種である。「御宿かわせみ」の中に、酒の肴の描写がある。青々と 茹で上がった枝豆、豆腐のあげだし、茄子のしぎやき。丁寧なお膳である。老婆心ながら、豆腐のあげだしとは、豆腐を厚いままに軽く衣なしに油で揚げたもの で、お稲荷さんのお揚げではない。
この女流作家の小説には料理が活かされている。ある場面に朝餉の内容が「小魚の煮つけに、大根の柚味噌かけ、豆腐の味噌汁、大根おろしを まぶした薩摩あげ」となっている。薩摩あげとは魚肉の練りものを油で揚げたものだろう。これも女房がたまきししか帰ってこない亭主にいそいそとして出す手 料理になっている。朝にしては凝っている。雰囲気を思わせるのに役立っている。
私は男子が厨房に入ることを禁じられていた世代である。女子と同じ教室に並んだのは中学校の第3学年からだった。もちろん今の生徒のように学校で料理を学んだことはない。だから作る元気は出てこないが、できあがった料理には関心がある。
江戸老舗展を覗いたら油屋が店を出していた。江戸時代の食油は大半がごま油で、天ぷらは元々魚介類の料理法として始まったと講釈してくれ た。かわせみの揚げ出しも薩摩あげもその延長だから、書いてはなかったが、胡麻油による料理だったのだろう。幕末頃の物語だから魚介類以外にも油が料理に 応用され出していたのだろう。
今高速9号線が深川を通る位置は、昔油堀とか云った堀割の埋め立て地である。小さな記念公園がある。「油」堀というのは、その界隈には油 問屋がずらりと並び、堀割を使って荷の運搬をしたからだそうである。油は灯用が主だったかも知れぬ。深川江戸資料館には灯用の魚油を商う油問屋が店を開い ている。しかし、天ぷらの屋台も店を開いている。かき揚げが店に出ていた。
江戸の食事の標本として深川江戸資料館ではお雑煮を見た。京都と違ってこちらは澄まし雑煮である。江戸東京博物館では二種の膳が展示され ていた。多分祝い膳だったと思う贅沢な方は、一の膳二の膳と別れていて、二の膳にはうなぎの蒲焼きが載っていた。うなぎが出たのはここが始めてであった。
鹿肉のなますと言う料理は、古代上級役人の食事としてあちこちの博物館で見た。鹿肉を細かく切って、それをやはりみじん切りの野菜と白っぽいソースであえたものという印象だった。この料理は江戸時代には姿を消したのか、どこにも見あたらなかった。
博物館に食事専門の展示室があっても良いと思う。時代によって、身分によって、貧富によってどんな変化があったのか。食は生きるための基 本行動である。だのに民俗資料を謳いながら食を軽視している博物館が多い。深川江戸資料館は規模と目的から云って合格であった。それから袖ヶ浦博物館は もっと詳細に一時代前の食事をシチュエーションごとに何種類も展示していた。よそも深川程度には展示して欲しい。

('97/12/22)

「老コンサルの残日録」http://ameblo।jp/tkjsk0231hzannitiroku/より

世界不況


経済・金融、ましてやそれが国際的な規模になると、私は完全な門外漢です。現在の状況を素人なりに考えてみる と、<証券化>という錬金術の開発、米国の住宅バブル、それを煽ったサブプライムローン、バブルの崩壊、資産の劣化、リーマンの倒産、投資していた金融機 関やファンドの資産の毀損、(米国は国を挙げての救済策)、金融不安の世界への波及、金融ばかりでなく全産業への悪影響…なんでしょうか。


NYダウが1万ドル切れでサア大変、金融機関は大丈夫?次はドコ?不安の連鎖。米国の消費がガタ落ち、米国への輸出 依存国の不況…。世界は同時金融不安・同時経済不況。日経平均が1万円切れ、日本でも大騒ぎ、ようやくバブル後遺症から体力が戻りつつある国内銀行の資産 劣化、銀行の貸渋り、金ズマリと不況で企業の倒産が多発。日本円は対米ドルで100円レベルに、輸入品や海外旅行は値下がり期待ができるものの、世界同時 不況に円高がプラスされて輸出は大打撃、景気の底抜けで企業倒産の増幅…かも。大変な事態を迎えています。


『今回はドウなんでしょうね』と聞かれる事があります、素直に『分りません』と答えます。ただ、『日本のバブルが崩 壊した時、銀行は不良資産は8兆円と言い日本政府もそれを信じ(?)て対策が後手に廻って酷いことになりました、その結果<失われた10年>という言葉が 生まれました。日本の財政が破綻状態になったため政府は不況対策が打てず、その結果いまだに経済は低空飛行を続けています。当時、英国の調査機関が<日本 の銀行の不良資産は96兆円>と言っていました、結果的に彼等の言ったとおり100兆円を超えたようです』。


『R・クー氏は≪今回の米国金融機関の不良債権は560兆円以上(日本円換算)≫と言ってます、日本のバブル期の不 良資産が100兆円、その後も不況続きです。今回の米国の不良債権が仮に600兆円とすれば日本の時の6倍、米国のGDPは日本のそれの約3倍、私は素人 で何も分りませんが、こう考えると…』と答えます。酷い事になる予感がします。


『あのトヨタでさえ減産に入る不況本番の日本経済なのにナゼ円高なんでしょうね』、『分りません、凶悪で醜悪な金融 資本が、米国の住宅・原油・穀物・希少金属…次に<円>を狙うんでしょうかねえ、でも幾らか長い目で見れば≪振り子は戻る≫と思いますけどね』。リーマン のCEO(最高経営責任者)の報酬は日本円換算でナント81億円だそうです。今ごろ金融悪魔が高笑い。許せない。私も、今回はささやかな被害者の1人なん ですから。酷い時代が来そうです。ところで政府の対策はドウなんでしょうね。


秋の国会・予算委員会

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秋の臨時国会・予算委員会が開かれました。TVのチョッと見ですが、情けないやら悲しいやら、こんな政府を持った国民として無念でなりません。


民主党の長妻委員(年金問題でテレビ露出度抜群です)の質問『野党が官庁に資料を要求した場合、それを官庁側が事前 に与党の国対(国会対策委員会)に(野党に渡していいかどうか)確認する事になっているが、(与党に都合の悪い資料は出すな、という)検閲ではないか。事 後ならまだしも…』という質問に対して…


麻生総理大臣の答弁『貴方が事後ならOK…と言われるなら、事前も事後も同じなのでなんら問題はない』。資料を野党 に渡していいかどうかの事前の相談と、渡した後の事後報告、これを<同じ>と言う神経に、麻生さんの思考回路の異常性と情報公開が大前提である議会制民主 主義に対する誠意の無さと政治家としての資格があるのか、を感じます。


数年前、イラクへの自衛隊派遣について、野党議員が当時の小泉総理大臣に対し『戦闘地域には派遣しない、とのことだ が、それではイラクの何処が安全なのか?』と質問した時の小泉さんの答弁『要するに自衛隊が行くところは何処でも安全なんです』。この時は開いた口が塞が りませんでした。麻生さん、小泉さんと同質の人です。


長妻委員が、≪天下り役人の2回以上の渡り(ワタリ=多額の退職金を手にした上で役所を辞め、政府の外郭団体に何回 も天下って、その度(タビ)に高給(税金)を食(ハ)み多額の退職金(税金)をせしめること)について質問したところ、甘利大臣の答弁『貴方だって知って るでしょう、公務員には失業保険はないんですよ、だから…』、甘利さんって失業保険の実態を知ってるんですかねえ、知った上での言葉なんですかねえ。


同委員の厚生年金改竄事件についての質問に対して舛添大臣の答弁『やってみなければ分りません、一人ひとり訪ね歩い て…』、全体を把握しないでドウ対処するんでしょうか、だいいちどれだけ期間・費用が掛かるのか、如何したら効率よく国民の期待に添えるのか、分らないで しょうに。最後に『貴方の考えも有るでしょうが私の考えで進めます』と。


これが日本の議会制民主主義の実態なんです。国民として、情けなくも悲しい実態です。現与党と官僚の持ちつ持たれつの関係、麻生内閣は官僚擁護内閣ですね。

http://pub.ne.jp/shimura/?cat_id=84552&page=2志村建世氏のブログより

70代からの情報革命(1)

 私は字が下手だ。手紙でも、ちょっとしたメモでも、自分が手書きしたものが、きれいに見えたことがない。父親は中学生の私に習字を課して、夏休み の間に「九成宮醴泉銘」という楷書の極意を臨書させた。毎日つづけて最後まで書いのが少しは効果があったのか、直後の二学期の最初に、私の習字が一回だけ 教室に張り出されたことがある。しかし、万年筆で書く日記の文字がきれいになったとは思えなかった。
 社会人になってからも字では苦労した。独 立して映像の仕事を始め、スライド作品の台本などを書くことが多かったのだが、客先から、読みにくいので書き直してくれと言われることもあった。そこへ登 場したのがワープロという機械だった。和文タイプは、とても素人の手に負えないとあきらめていたのだが、ワープロはかな文字を漢字に変えてくれるので、 50音のキーだけで打てるというのが気に入った。さらにパソコンの普及が始まっていて、ワープロはパソコンの機能を文書作りに特化させたものだと聞いたか ら、時代の最先端を行くもののように思われた。
 NECの「文豪」が発表されてすぐの頃の昭和58年(1983)に、ショールームへ現物を見に行った。説明の女性がていねいに教えてくれて、漢字を含む 小さな文節に分けて入力すると、漢字変換がスムーズにいくのが実感できた。変換キーを押すたびに候補の漢字が次々に出てくるのが面白かった。そこから一つ を選択すると、次回はそれが最初に出るというコンピューターの賢さに驚嘆した。当時の私の年齢が50歳である。すっかり気に入って、欲しいと思った。
 ところが価格はプリンターも含めると150万円もする。7インチのフロッピーディスクを使う堂々たる大きさである。当時の家業の売り上げでは、設備投資としても過大な買い物だった。それでも妻を説得して、長期のリースで導入することにした。
 機械が到着してからは、説明書を熟読して少しずつ機能を覚えていった。かなり面倒ではあったが、手抜きしないでよく読めば、使い方に迷うことは少なかっ た。この「知りつくた安心感」の成功体験は、後にパソコンを覚えるときには、むしろ障害になったと思う。ワープロは、まだ知りつくすことが可能な機械だっ たのである。
 ワープロを使い始めたころは、当然ながら作文の早さは、手書きよりもずっと遅かった。ただ幸いだったのは、私が最初から「考えながら文章を打つ」のに ワープロを使ったことだった。私は推敲を徹底する方だから、手書きの時代には消しゴムが欠かせなかったのだが、ワープロでは画面の上に言葉を並べてから自 在に順を入れ替えることができる。この違いは大きかった。

鵜飼俊男60歳 のコメント

素晴らしい「志村アイデア」「志村ぺダル」の提案です。

ブレーキとアクセル2つのペダルの間隔は、7センチです。
手動変速車でクラッチとの間は20センチ。オートマ車のブレーキとアクセル2つのペダルの間隔を、上記2つの中間の13センチ空けた車を選択できる車種をとりあえず用意し発売、世界に発信するのが良いとおもいます。

急ブレーキをかけたときのバターンをアクセルに覚えさせておいて瞬時にブレーキを作動させるシステムは、凍結の時の急ブレーキをを弱める技術等にセットして組み込み出来そうな気がします。第2弾として3年以内に選択装備品のひとつとしてスタートさせるが堅実でしょう。

製造屋は頭が固いですから、1段づつの改良しか、手を出したがりません。

志村 建世

発展のアイディアをお寄せくださって、ありがとうございます。メーカーから接触があったら、このコメント欄も見るように伝えます。

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