2008年10月21日火曜日

志野原生氏http://www005.upp.so-net.ne.jp/shigas/WELCOME.HTMより

新吉原を行く


隅田川に懸かる歩道橋桜橋を渡ったところから少し南が山谷堀の起点である。堀は埋め立てられて細長い記念公園になっている。吉原へは、山 谷堀を吉原大門まで遡る方法が一番のお大尽遊びであったと公園の由緒説明文に書かれていた。捕物帖「御宿かわせみ」では陸路や隅田川だけを猪牙舟にする ルートが主に使われいる。お江戸探訪の一つとしてこのルートを辿ることにした。
川幅は意外と狭い。埋めたて前の欄干が残っていて、銘板には昭和4年改修と書かれていた。その端から端までが3間無い。行き帰りの猪牙2 艘がやっとすれ違う程度の幅である。北側の土手には桜が植えられているから春は美しいであろう。南側はもうビルが占領している。公園とビルの1間もない空 間に不釣り合いな柳の大木が1本窮屈そうであった。
堀割に沿った社寺で目立ったのは待乳山聖天であった。隅田川近くの小高い丘の上だからさぞかし昔は見晴らしが良かったであろう。今は山肌 を削ってビルが接近して建てられ、公園やらお寺やらビルやら駐車場やら自然を残すのは損だとばかりに、人工物が取り囲んでいる。これまでの東京見物でだい たいは想像していたが、今改めて高い費用をかけての公園造りなら、何故あのままの歴史的風景で残さなかったのかと思う。
吉原大門から真っ直ぐ吉原神社に向かう。浅草七福神の一つらしく幟があちこちに置いてある。正月のお参り案内だったのであろう。ここは歓 楽街である。まだ昼なのに客引きの姿があちこちに目立つ。往復で10人は数えた。電光掲示板風の看板があって、30分3000円と読めた。目が合うと声を かけてくる。
町並みは汚らしい。戦争で焼ける前は三階楼が軒を並べ、遊郭らしい景観があった。戦前を知っているわけではないが、木村荘八の絵図が示し ている。戦後の人々は、どこもそうだが、町並みに美観を保とうとはしなくなった。公共の建物だけやけに立派でもねぇ。角海老の看板が目に入る。角海老は記 憶にある。樋口一葉「たけくらべ」に出てくる妓楼の屋号である。昔大門正面の通りの大店であった。
公園で目に付くのは浮浪者である。先週の雪がまだ消えていないし、寒空であるが、服装は結構しっかりしていて防寒に困っている風ではな い。布団があちこちに乾かしてある。日焼けに無精ひげ、垢じみた顔手足など決して側にいて心地よいものではない。殆どが老人だが、壮年者もいる。往路で出 会った人は帰路でも同じ位置で所在なさそうに座っている。携帯ラジオを聞いている人も何人かいた。隅田川河畔には防水布を屋根にした箱形の小屋が何軒もで きている。
浮浪者が増えて行く。浮浪についての罪悪感が薄れ、人道援助が手厚くなって「やる気のない」浮浪を助長する。行き過ぎるとデモンを呼び込む予感がする。

('98/01/17)

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