2008年10月14日火曜日

志野原生氏http://www005.upp.so-net.ne.jp/shigas/WELCOME.HTMより


小粒がより小粒を選ぶ


田原聡一朗は早稲田の出身である。彼と早大総長の対談記事が昨年末の毎日新聞に出た。田原氏の方が先輩である。彼の母校改革への苦言がほとばしる。
早稲田は東大慶応に比べて立ち後れているという。教授陣の刷新に関してであったように思う。改革は人事の刷新から。早稲田出身で固めた、 純血主義とは聞こえがよいが、無風地帯ではろくに論文も出ない教授陣になってしまう。人は学生一流、教授三流と早稲田をこき下ろす。総長はそれを理解でき ても、教授会に決定権があって布石がままならぬ。
そこで出てきたのが表題の言葉である。自身の安泰のためには自分より能力の優れたものを次期候補に選びたがらない。まあそんな意味か。早 稲田に限らず、大学に限らず、どこででも経験する話である。お手盛りが許される範囲で、最大限に自分の安泰のために行動するのは、人間の本能的行動で、早 稲田の教授だけその例外であれというのは筋違いの発言のように思えた。
歯止めはきびしい人事評価制度である。それが十分機能すれば早稲田の教授陣は常に一流であろう。東大は、いかなる場合も目に見える姿で、 一流でなければならぬと言うプレシャーを受けている。日本の期待である。特別の評価システムが無くても、このプレッシャーは、十分教授陣の選別一流化に機 能し続けるだろう。自由闊達でバラエティに富んだ人材を供給した学風は早稲田の看板である。しかし世間は教授に一流を望んだことはない(と教授も思ってい る)だろう。
年功序列でも細かい階段が沢山あって功労のないもの失敗のあったものは相対的には落ちて行く。日本の私企業はこの傾向を一段と強めてい る。権限は今まで通りとしながらも、教授も準教授、教授、大教授のように三段階ぐらいとする。俸給にランクを設けて任命辞令と共に公表する。査定者はどち らも総長である。これぐらいの改革はやれるのではないか。
かって教授契約任期制が議論された。中高年再雇用に特に閉鎖的な我が国では今は向かない制度であるが、雇用市場の開放と共に考えて良い制度ではある。いまでも従来の制度とは独立の採用形態として並列させるのなら可能かも知れない。ただ誰と契約するかが問題である。
教授会に最終判断が任されるにせよ、教授も唯我独尊ではなく、常に行動を評価されているという外部システムが結局は必要であろう。評価す る人と実行する人を別個に置かないとどうしても易きに流れる。お手盛りでは庇い合いで、最小限の義務、例えば学術業績についても疎かにする人が出てくる。
個人では手の届かぬ全学的問題については苦労の割に実りがないから、問題の先送り、おざなり的妥協を積み重ね、気付いたときは重傷となっ ている。学内の秩序維持につては、時には学外から無法地帯との顰蹙を買うほどになって初めて動き出す。こんな決定機関ではだめなのである。
我々は、ほったらかしにして「良識」に任せると、最高学府でもこうなるという経験を半世紀かけてやったように思う。今までの我々の社会は鞭を遠慮しすぎてきたように思う。少し昔に帰した方がよい。

('98/01/04)

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