2008年10月2日木曜日

http://blog.livedoor.jp/birdcatcher/archives/51344766.htmlより







物語の時代背景は映画では1949年となっているが原作には何年という明らかな表記はない。第二次大戦が終わって何年か経ったころという程度 で、まあ、おおむね1949年頃ということだろう。当時のテキサスやメキシコのいわば「自明」の風景の中で、牧場に生まれ馬と共に生きるより他に生きるす べを知らない、あるいは馬と共に生きることが最も自然な生き方で、他の生き方など思いもよらない、それもまた「自明」といった風情の少年(ジョン・グレイ ディ)が父母の離婚と生まれ育った牧場の売却という事態に直面、自分の生きるべき場所を求めて友人とともに馬に乗って旅に出る。
この、世界のどこ に自分の居場所を求めるかというテーマは「ノーカントリー」の主人公で自分には理解できない犯罪や犯罪者に直面して引退してゆく老保安官ベルのテーマと通 底している。ベル保安官は引退すれば良かったが、「すべての美しい馬」の主人公ジョン・グレイディ・コールはまだ16歳の少年で、その「居場所」を自分の 力で勝ち取っていかなければならない。そのために彼は台頭する自動車文明に背を向けるように、昔ながらのカウボーイの生活を求めて旅をし、やがてメキシコ の大牧場にたどり着く。そこからめくるめく運命の変転が始まるのだが、そのことは措いておく。

紹介したいのは、やはり馬についての様々な記述である。この小説 に記された主人公やメキシコ人の馬に対するまなざしのありようというものは、どんな時代であっても日本ではちょっと生まれようがない、そんな気がした。独 立戦争や南北戦争あるいは西部開拓時代のインディアンとの戦いや無法者達の私的な闘争、アメリカの建国の歴史にはどんなところにも常に馬がいたし、メキシ コ革命の動乱の舞台にも常に馬がいたであろう。以下は革命を戦った老人が主人公に語って聞かせる馬の話である。


   彼らはその夜地卓の頂上の岬のような部分に野営して強い風に吹かれた炎が闇の中で前後左右に首をふる焚き火を囲み、ルイス老人が語るこの国とこの国に生き る人々についてのまたこの国で死んだ人々と彼らがどんなふうに死んだかについての物語に耳を傾けた。老人は生涯馬を愛してきた男で彼も彼の父親も二人の兄 弟も騎馬隊にはいって戦い父親と兄弟は騎馬戦のさなかに死んだが彼らはみな他のどんな人間よりもビクトリアノ・ウエルタ(筆者注:メキシコ革命時、反革命 を指揮し残虐行為を繰り返した将軍)を軽蔑し他のどんな邪悪な行為よりもウエルタの成したことを軽蔑した。

    (中略)

  (老人は)自分がメキシコの砂漠で戦った戦闘の話をし自分の体の下で殺された何頭かの馬のことを語って馬の魂は人が思っている以上に人の魂を映す鏡だとい い馬もまた戦争が好きなのだといった。馬はただ後から好きになるだけだという人もいるがどんな生き物も心がそれを受け入れる形になっていなければ好きにな るはずがない。自分の父親は馬に乗って戦争に出かけた者でなければ本当の意味で馬はわからないといったがそうであって欲しくないと思いはしてもどうもそう らしいと老人はいった。
 最後に老人は自分は馬の魂を見たことがあるがそれは見るからに恐ろしいものだといった。それは一頭の馬の死に立ち会った ときにある種の条件がそろうと見えるがそれというのも馬という生き物は全体でひとつの魂を共有しており一頭一頭の生命はすべての馬たちをもとにしていずれ 死すべきものとして作られるからだ。だから仮に一頭馬の魂を理解したならありとあらゆる馬を理解したことになると老人はいう。


馬が戦争を「好き」かどうかは異論があるだろうが、馬が戦場で示す勇敢さを讃える言葉というのは古くは旧約聖書やコーラン にもあるし、砲弾や銃弾が飛び交う中を突撃し、時には火をも恐れずその中に飛び込んでいく「馬」という生き物の不可思議さは時として神格化されたとしても 不思議ではない。馬という生き物は全体でひとつの魂を共有しているというのは「神格化」の萌芽でもあるだろう。

   眠りのなかでジョン・グレイディは岩のあいだを歩く馬の蹄の音を聞き暗がりの浅い水たまりで馬が水を飲む音を聞いたが岩は古代の遺跡に残された石のように 矩形をして滑らかで馬の鼻面から垂れる水は井戸に落ちる水滴のような音をたて、その眠りのなかでジョン・グレイディは馬の夢を見その夢のなかの馬たちはあ る古代の遺跡にやってきたかのように傾いだ石の建物の残骸のあいだを重々しい足取りで歩くのだったがその遺跡は世界の何らかの秩序が崩れ去ったあとなので あり石の上に何か書きつけられていたとしても風雨に晒されて既に跡形もなく消し去られていて、そこを歩く馬たちはこの遺跡も含めてかつて馬が存在しまたこ れから存在するであろうさまざまな場所の記憶を血のなかに携えて慎重に警戒怠りなく動くのだった。最後に彼がこの夢の中で悟ったのは馬の心臓のなかにある 秩序は雨に消されることのない場所に書きこまれているためにずっと永続的なものだということだった。


まさに神話世界のイメージ。馬の心臓の中にある秩序はずっと永続的であるという。おそらく時間的な話だけでなく空間的にも。つまりひとつの魂を共有しているということが重ねて表現されているのだろうと思う。

私 が思うのは、神話でもいいし伝説でもいいのだけれど、そういう文脈で語られた「馬」が日本には少ないなあということであり、まして現代日本の競馬という現 場でそういう神話伝説が誕生する素地があるのだろうかという疑問である。実も蓋もなく「無い」と言ってしまえばそれまでの話ではあるけれど、日本の「ホー スマン」と呼ばれる人々の馬との付き合いのあり方を考える上で、彼らが馬によってどんな刺激を得ているか、その感性のありようは覗いてみたい気がする。 「強馬」をつくる上で、つまるところその感性が重要だと思うから。

   馬たちはすでに動揺しはじめていた。ロリンズが最初に群れから飛び出した馬の首に投げ縄の輪をかけ両前脚を縛ると馬はどさりと大きな音を立てて地面に倒れ た。異常を嗅ぎつけたほかの馬たちは一塊になって首をこちらに振り向けた。若駒がもがきながら立ち上がる前にジョン・グレイディが首の上にまたがり頭を引 きつけて骨張った長い顔を自分の胸に押しつけると鼻腔の暗い井戸の中から熱い甘い息があふれ出してきて別世界からの便りのように顔や首にかかった。馬の匂 いではなかった。馬である以前に彼らがそうである野生動物の匂いだった。馬の顔を胸に抱えこみももの内側に馬の動脈が力強く送り出す血を感じることができ 馬の怯えを嗅ぎとることができた彼は、馬の目の上に手をかぶせて撫でてやり、低い声で休むことなくこれから自分が何をするつもりなのかを囁きつづけ恐怖心 をこすり落とすためにさらに目の上を撫でた。


最後に野生馬の馴致シーンから。原作にはこのあと馴致方法が仔細に書かれていて非常に興味深かった。かの"ホース・ウィスパラー"モン ティ・ロバーツが否定した昔ながらの暴力的方法だが、映画では前脚を縛るようなことはせず、単に荒馬を乗りこなす西部劇でおなじみのロデオシーンのように なっている。やはり動物虐待を非難されるのを恐れたのだろう。
原作ではこのシーンに限らず主人公は常に馬に語りかけている。日本では馬に語りかけ ることは「重要だ」といわれる。かの地では馬に語りかけることは普通であり、自然でもあり、当たり前のこと、つまりあらためて「重要」と意識するまでもな いことのようであり、そういう意味でも馬との関わり方に関する彼我の差は大きいなあと改めて思った次第。

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