2008年10月27日月曜日

じいちゃんの独り言http://okamoto1.at.webry.info/

執行猶予付き死刑とは何だ!


10月もあれよあれよと言う間に今週でお仕舞いですね。昨日から風邪を引いて体調最悪ではありましたが半年に1回のことであり、本日午後村野工業高校での 漢検テストに行って参りました。熱に浮かされて思考能力減退のハンディを背負っての挑戦でありましたが点数は兎も角として何とか無事終了しホッと安堵して 居ります。今回も準1級では会場での最高齢者だったようです。(;;)斜め前に今回も又違う坊やが一人受験しているので試験終了後声を掛けると平成10年 生まれの10歳とか(^^)、うちの孫娘と同じ歳なのに愕きました。4級のテストも同じ時間帯に行われましたが、此方は殆どが中学生でしたから4年生の坊 やは異彩を放って特異な存在でしたね。
会場の村野工業高校は男子校のため学舎の中が前回までの会場であった山手短大と比べてメチャ汚く、おまけに女子受験者の多い漢検のために1階のトイレは臨 時で全て女子専用とされましたが、小便器ばかり多いために、他の時間帯では行列ができて試験開始に支障を来したのではと思った位でありました。(;;)
次回は来年6月受験(2月のテストは確定申告のためパス)となりますので束の間の微睡(まどろ)みとなりますが、その微睡みが曲者で油断すると此までの記 憶脳の中身が根刮(こそ)ぎ攫って行かれますから、明日から矢張り例え一日10分でも20分でも漢字を書く習慣を欠かすことができません。
例年減っては来ていることは実感して居ましたが、今年は際だってトンボの姿を見ることが少なくなり、いつもは夏から秋にかけて路上を乱舞する秋茜(アカト ンボ)がこの辺では殆ど見られなくなりました。産卵に必要な池や川のワンドなどがどんどん失われていることが原因だと悲しく思いますが、先日の早朝事務所 の庭で秋茜が一匹睡んでいるのを偶然見付けました。色褪せて居て老境に入ったことが窺えましたが、そっと手を差し伸べると、逃げないで私の手にすっと移っ てきましたから或いは死期の訪れを悟って飛ぶ力が失われていたものかと思ったのですが、写真を写して元の場所に戻して振り向くと居なくなっていましたから 朝の散策の途中、優しそうな?老人への労りのタッチであったかも知れませんね。(^^)

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トンボは昔から幸せを招く女神と謂われていますが、我が国がここ数年来世界経済の荒波の中に翻弄されて居るのは、トンボが少なくなったことにも由来するのではないでしょうか。(;;)

文化審議会によれば社会生活でよく使われている漢字の目安となる常用漢字の改訂作業を平成10年の答申に向けて進めているようですが(何時まで掛かってい るのか!)今回新たに古刹の“刹”脊椎の“椎”賭博の“賭”遡上の“遡”なども加えることとした案を纏めたようです。どうして上記の字が選ばれたのか知る 由もありませんが、考えてみれば脊椎の“脊”だけ置いてけぼりはおかしく、賭博の“賭”にしても、私のエイトクはアホで“者”の間にチョンが入っていませ んが、辞書では猪のように“者”にチョンが入っております。此は常用漢字になった字は全て其れまで付いていたチョンが省かれるようになったためですが、当 然に常用漢字以外の字はチョンが必要であり忘れると×になります。従って常用漢字昇格と同時にチョンをも消し去ることになりましょうが、常用漢字になった からと今更字体まで変えられるのはどうかと思いますね。常用漢字と謂えば皆様は“繭”(まゆ)と謂う字をご存じでしょうか、繭は虫が糸になるからつい左が 虫だと思い勝ちですが、事実は紛らわしくも左が糸で右が虫であって、ややこしい漢字であり、漢字が昔は右上から左下へと書かれていた名残かと思われます が、書き順が左から右へが主流となりつつある昨今漢検の受験生を悩ます処です。この字がさらっと書ける方は幾歳の方でも漢検2級は楽勝でしょう。(^^) 一般の方は養蚕業も廃れた昨今こんな字が常用漢字だとは愕かれるでしょうが、何れも髄や虜などと同じく大威張りで2級の書取りに出て参ります。(;;)文 化審議会も詰まらぬ字を常用漢字に降格させることばかり考えないで使われる頻度の少ない漢字を棚上げして常用漢字から除外することも必要なのをサボってい るように思えてなりません。現在1945字ある常用漢字が2131字に増えるなんて受験生いびりも良いとこですよね。(;;)

先週新聞の片隅に小さく元北京副市長に執行猶予つきの死刑判決が下されたとありました。
此の男は在任中に北京市内の土地開発を巡って業者から賄賂を円価にして約1億円受け取っていたことが発覚したそうですが、役人のすることは中国も日本も変 わりませんね。変わっているのは此の汚職事件に対して被告は裁判所で一審判決を受け、執行猶予2年付きの死刑判決を言い渡されたそうです。執行猶予付きの 死刑とはハテ?聞き慣れぬ言葉ですが、2年後に死刑になることなのか、2年間罪を犯さなければ死刑が消滅するのか定かでありません。日本の考え方なら後者 になりますが、残虐な中国のことですから前者も当然に視野にいれねばならぬでしょう。そして若し前者であるなら通常の死刑より遙かに過酷な刑となりますよ ね。何時執行されるか分からぬから死刑囚も生きて行けるので、余命が後730日から1日宛減って行くのを毎朝どんな気持ちで迎えられるのでしょう か。(;;)

社会保険庁がオンライン化以前の1986年より前にも改竄が多くあったとの第三者からの証言が先日民主党の会合で行われました。此の男性Sさんは78年か ら82年に掛けて都内の毛皮製品卸売会社に勤めていましたが、月額給与が実際には月額25万円程度であったのに社保庁で本年4月に受給手続きをした際、標 準報酬月額が9万8千円と溯って引き下げられて居り、Sさんの当時の同僚数人に確認したところ同じ頃同じように引き下げられていたことが判明したとか… (;;)この不幸な方は82年に退職されて半年間に受給された失業保険は離職時の1日当たりの賃金が約1万円と明記されて居り此の書類を証拠にこの6月、 総務省年金記録確認東京地方第三者委員会(何でこんなに長いの?)に記録訂正の申し立てを行いましたが、ナント!第三者委員会の担当者は失業保険が正しい 給与を基に支払われて居ても年金保険も相応に天引きされたとは言い切れないと言ったそうです。会社が標準報酬の申告を誤魔化したのか、社保庁主導による引 き下げだったのかは異論のあるところですが、溯って標準報酬を引き下げるなど会社が自発的にできる訳がなく社保庁の何らかの勧奨があったことが充分に頷け ます。
第三者委員会などと尤もらしい名前を付けながら、その実厚労省の諜(まわしもの)なのか、或いは厚労省に恩を売っておこうと総務省が考えたものか、厚労省 ではグルと思われてはまずいので総務省の名を借りたのか知れませんが、少なくとも第三者と名付けた以上民間の有識者(役人の言いなり)を除いた公募方式無 作為抽選で委員を選ぶべきでしょう。
公的な書類で年金受給者の給与額が確認された以上例え勤務した会社に作為があろうとも、それを見逃した社保庁の罪の方が遙かに重く、年金は無条件に訂正されるべきでありましょうが、役人の世界には全く以て白々しい話もあったものですよね。
民主党さん喧(かまびす)しいばかりで普段は少しも頼りにならないけど選挙も近いことだし、今度ばかりは頑張って下さいね。(^^)

大阪北区の聞くも無惨な低速ひき逃げ事件は、引き摺った被害者に対する仕打ちが余りにも残虐だったため殺人事件として大阪府警が総力を挙げて取り組んで居 り全国版の事件となろうとして居ります。愈々車も特定されようとして、確実に犯人の在処に近づこうとしているようですが、このドライバーは不幸にして信号 の停止線を超えて止まっていたために、夜でもあるし信号が変わった後、前を横切ろうとした人を見落とし発進したものと思われます。信号の停止線の位置の意 味を教えられた事件でありましたが、衝撃音を耳にしたドラーバーが最初に考えたことは何だったでしょうか。恐らく酒気帯び運転の発覚を恐れての逃走であっ てそれが殺人事件にまで発展したものでありましょうが、ドーンと大きな衝撃音がこの人の全ての判断力を失う切っ掛けとなり、酔いが覚めた今となってはあの 時如何して止まらなかったのかと日夜悔恨の思いに苛まれ迫り来る捜査陣に恐れ戦いていることでしょう。(;;)何れにせよ後悔先に立たずであり、皮肉では ありますがきっとこの人は今一番恐れている逮捕されることで、一人の人間として真から心の安らぎを憶え拘置所では熟睡の夜を迎えられるものと思います。然 しそうなると代償としてこれまで築いてきた家族や仕事や全ての物を失うことになりますから、そんな風に考えるとこの人が自殺する可能性が決して低くないこ とが見えてきましたね。私自身だったらどうするのかなど考えていると一寸先も見えぬ“無明の闇”である人の運命の儚さをつくづくと思い知らされました。

投稿
執行猶予付き死刑とは何だ!について
「標準報酬を引き下げるなど会社が自発的にできる訳がなく社保庁の何らかの勧奨があったことが充分に頷けます。」まったく、おっしゃるとおりです。事務所名や本名を公開しての、先生の歯に衣を着せぬ御発言に、憤懣が半減、清涼剤です。

私は今、店を畳み、失業者で、求職活動中。先生のブログを、楽しみにしております。 http://www.geocities.jp/bnbn458bn 60歳



志野原生氏http://www005।upp.so-net.ne.jp/shigas/WELCOME.HTMより


曳舟通り


向島は、明治以降に大幅な河川改修がなされたために、捕物帖を読むのに苦労な場所である。江戸時代の綾瀬川に沿って荒川放水路ができ、蛇行の著しかった旧中川を南北一直線の新中川に引き直した。旧中川は沼として残る一方で、いくつかの中小の河川堀割が埋め立てられた。
曳舟川は業平橋あたりから旧中川にほぼ南北一直線に引かれた堀割である。多分河口に近くになって荒川が分岐し、その支流の一つが手を加え られて出来たものであろう。荒川放水路までの曳舟川は昭和の初め頃までは残っていた。東武博物館に展示されている昔の航空写真に川筋が見える。今は埋め立 てられて曳舟川通りとなった。
本所深川の西寄りを除いたら隅田川の東は田園地帯であったと、捕物帖には描写されている。生活しているときは、どこにでもある風景だから 誰も記録しない。時代が変わって大都会に組み込まれた後では、振り返っても過去を語るものは大抵殆ど残っていない。都市特に大都市の失われた過去は想像す るだけである。曳舟川筋もその一つであると思っていた。
千葉県立美術館の常設収蔵作品展「浅井忠、その生涯」を見た。浅井忠は近代日本洋画の父と云われる人で、千葉県佐倉の出身であるためか、この美術館で集中的に作品蒐集されている画家である。
展示作品の中に'85年(明治18年)制作の「曳舟通り」があった。ペン画である。ペンの黒線で描かれた、写真のような写実的な画であ る。運河を中心とした風景である。船頭の乗った猪牙と筏がすれ違おうとしている。もう一艘分ぐらいの水路があるからまあ川幅は4間である。両川辺に平行に 細い道が続く。片側に藁葺き屋根の小屋が三棟見える。その一つは川にせり出し屋根の下は吹き抜けである。道を挟んだ残りの一つには小さな幟が幾つも見え る。馬を曳いた馬子が通りかかっている。どうやら三棟纏めて一軒の茶店らしい。川の先に簡単な橋と人が見える。
まだ江戸時代をそのまま引きずっていた頃のスケッチである。高い土手を作っている風でもない。曳舟というから昔は上りを引っ張ったのだろうが、その人物は描かれていなかった。
浅井忠は農婦や漁婦を写実的に描いた。日清事変の従軍画家としてのスケッチも情景を彷彿させる。たとえ同じ情景が写真で残っていても、彼の絵やスケッチの方が、見る目により真実に近いと映るに違いない。

('98/02/02)



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